11月 2日 遠州公と高取焼
ご機嫌よろしゅうございます。
先月遠州公の国焼指導についてのお話を
致しました。
黒田官兵衛の子・長政が開く福岡藩にも
遠州公指導の御庭焼である「高取焼」があります。
黒田長政は朝鮮の役で、後の高取八山を
妻子共に日本に連れて帰り、
黒田公の召し抱え、しかも月俸七十人扶持、寺社格
という高禄で迎えられます。
慶長六・七年頃に永満寺宅間窯に開窯しますが
遠州公の指導を受けるようになったのは
そのもう少し後。
この遠州公と高取焼の出会いには
ある有名なエピソードがあるのです。
その話はまた改めて…。
5月17日 遠州公の愛した茶入「下面(しためん)」
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州蔵帳所載の茶入「下面」を
ご紹介します。
昨日遠州好みの面取についてお話ししました。
この茶入はその好みがもっともよく表れたもので
その形状から遠州公が命銘したと思われます。
書籍等でご覧になったことのある方も多いかと思います。
高取焼きは遠州公指導の窯の一つで
遠州高取とも呼ばれます。
この茶入は、その遠州高取の絶頂期である
白旗山窯(寛永七年・1630)
のときに作られたものとされています。
遠州公の茶会記に高取焼茶入が初めて登場するのが
寛永五年(1628)4月23日で、同じ年に6回
寛永十年(1633)に1回、寛永十九年(1642)に2回
合わせて約九回使用したことが確認できます。
このうちこの下面が使用されたと考えられるのは
寛永十年以降と思われます。
遠州公以来小堀家歴代に伝わる茶入です。