11月 20日 片桐石州
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は片桐石州についてお話しします。
天正十一年(1583)生まれ。賤ヶ岳の七本槍の
一人として有名な片桐且元の弟だった貞隆の子
として生まれます。
江戸時代に京都知恩院などの普請奉行を務める間、
京で遠州公や宗旦、金森宗和、松花堂などとの交流
を深め、茶の湯の実力が磨かれていったようです。
若き石州はそれら大先達にその器量を試される
時期であったようで、遠州公や宗旦の茶会に参会し、
石州の茶の師であった、桑山左近の教え以上の話を
ふられたりしていたという話が残っています。
(「松屋会記」「元伯宗旦文書」) →要確認
後に四代将軍家綱の所望で、点茶の式を行い、
徳川家秘蔵の名物道具の鑑定をする御道具奉行になります。
「石州三百か条」は後の柳営茶道の規範にもなりました。
四代目の将軍茶道指南役ともなり、
遠州公の後継者的役割を果たしました。
延宝元年(1673)六十九歳で亡くなります。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州のあとに、将軍家茶道指南役となった片桐石州の命日です。
≪人物:片桐石州≫
片桐石州は慶長10年(1605)に大和小泉藩の初代藩主・片桐貞降の長男として生まれました。
賤ヶ岳の七本槍の1人である片桐且元の甥にあたります。
遠州より27歳年下で、関ヶ原の戦からも5年経ってからの誕生であり、当時の著名な茶人たちとは、一回り下の世代に属していました。
石州は千利休の実子である千道安の茶の流れを汲んでおり、道安の弟子である桑山宗仙に学んだと言われております。
やがて遠州の後、将軍家茶道指南役になる人物ですが、茶系としては千家の茶の流れであり、大名茶でありながらも、楽の茶碗を使用するなど、その特徴を随所にみることができます。
遠州の茶会には3回招かれており、他にも金森宗和や松花堂昭乗など、多くの茶人と交わりました。
寛文5年(1665)には、4代将軍徳川家綱の所望によって点前を披露し、その後、茶道指南役となり名を馳せます。
やがて石州を流祖として石州流が生まれ、江戸後期に『雲州蔵帳』を編纂した松平不昧や、大老であった井伊直弼がその流れとして知られております。
延宝元年(1673) 11月20日、69年の生涯を閉じました。