皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は空也上人が東国教化のために寺を出立した日であり、忌日とされています。
京都空也堂では、11月の第2日曜に空也上人を偲んで法要が営まれます。
≪茶道具:空也≫
【中興名物「空也」後窯・新兵衛作茶入】
瓢箪茶入である空也は、その形から念仏僧・空也上人の念仏踊りに因んで、遠州がその銘を付けました。
というのも、空也上人の念仏踊りは、瓢(ひさご)を叩いて唱えながら市中を徘徊することで知られ、そのことが由来となっているのです。
注目されるのは、底の釉裾から土見へかけて文字が彫られていることで、その内容は「早く御やき 頼入申候 有」とあり、恐らく唐物屋・有来新兵衛がその焼成を急がせるべく彫り込んだものと見られます。
挽家、内箱書付共に遠州筆で、仕覆は鎌倉間道、鷹羽切の二つが添っています。
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本日も引き続き、京都では光悦会茶会が催されています。
この名も、有名な本阿弥光悦から取られたものであり、彼も遠州にとって近しい人物でありました。
≪人物:本阿弥光悦≫
寛永14年(1637) 2月3日、本阿弥光悦は80歳で没しました。
その訃報を受けた遠州は、お悔やみの書状を書き、光悦の養嗣子の光瑳に宛てて送りました。
遠州と光悦の関係の中で、最もよく知られている事柄は「膳所光悦」の茶碗誕生の一件です。
寛永13年(1636) 5月21日に、品川林中の御茶屋に将軍家光をお迎えして献茶された際に、その控えの茶碗として用いられたのが、光悦に依頼して作製された、膳所光悦の茶碗でありました。
この大事なお茶会に遠州が光悦を選んだことは、当時光悦を最も優れた芸術家として、またその人間性をも含めて尊敬していたからに他ならないと言えます。
また光悦自身も、遠州が指導した膳所窯の性質を認めたことからこの茶碗が完成しました。
したがって、遠州と光悦の、心と心の通いあいの結晶が、膳所光悦の茶碗となったといえます。
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本日は京都大徳寺で江雲会茶会が催されています。
このお茶会の名に冠されている江雲宗龍についてお話いたします。
≪人物:江雲宗龍≫
江雲宗龍は、小堀家系譜によると、遠州の兄・池田七左衛門の子で、遠州の甥にあたる人物とされます。
小堀家の菩提寺である孤篷庵の開山・江月宗玩和尚に参じて法嗣となり、第一世としてそこに住しました。
当時の文化人と親しく交わり、特に千宗旦が息子である仙叟千室を前田家へ仕官するために江雲を通じて、遠州の弟・佐馬助正春に働きかけた事も『元伯宗旦文書』に残っており、重要な役割を担いました。
孤篷庵が完成してから5年後、江雲は大徳寺百八十四世となり、延宝7年(1679) 6月17日78歳で入寂し、円慧(えんね)霊通禅師の号を勅諭されました。
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本日は、その年の新茶がふるまわれる炉開きが近づいてきましたので、お抹茶のお話をひとつ。
現代では、各宗匠のお好みのお抹茶に、銘が付いていることは当たり前となっておりますが、その銘を最初に付けた人物が遠州であることをご存知でしょうか。
「初昔」
これがお抹茶の最初の銘となりました。
なぜ、初昔というのか。
それは、お抹茶の製法を、古田織部以前に戻したことから、と言われています。
では織部がどのような製法だったのか、といますと、彼は茶の葉を茹でていたのです。
現在もそうですが、織部以前は、茶を茹でないで、蒸していました。
それは、蒸せばお茶は白っぽくなりますが、香りがとても良くなるからです。
しかし織部は香りよりも、「色」を重視しました。
そのため、青々しい色の出る、「お茶を蒸す」という方法で、お抹茶を(正確に言えば「碾茶(てんちゃ)」)を製法したのです。
しかしさらに、遠州は織部の弟子でありましたが、この製法を昔に戻しました。
そのため、「最初の昔にもどした」ことから、「初昔」という名が生まれたと言われています。
ちなみに、「~の白」という名も、この「青茶」に対して「白茶」である、ということから付けられた名前です。
このようなことからも、今日でもこの遠州の創意が受け継がれていることを見ることができます。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
元和7年9月22日に江戸を出発した遠州一行は、10月4日にようやく京都に到着しました。
なので本日はこの旅を記した『東海道旅日記 上り』についてお話します。
旅の行程は12泊13日、500キロ。
1日の行程が約9里半(38キロ)、1里1時間と考えて、1日に9時間半ほど歩き続ける、と
いうことで、現代人にとってはかなりの強行軍のように感じられます。
しかし、その旅程を遠州自身が記した『東海道旅日記 上り』には、道中に難所がいくつか登場しますが、様々な人の手を借りて解決し、さらに和歌あり、詩ありと、とても楽しそうに日記は綴られています。
当時の遠州の人間関係を知るうえでとても貴重な資料なのです。
この日記の書かれた元和7年、43歳の遠州は城主のいなくなった丹波福知山の政務沙汰をする他は特別なことはなく、晴れやかな気持ちで旅ができたのではないでしょうか。
その後、この旅日記は、各大名からの書院飾りの一巻としても所望もあったようで、遠州の嫡子大膳宗慶、次男権十郎篷雪、三男十左衛門政貴などそれぞれが、書写しました。