8月 7日(金)遠州公所縁の地を巡って
「伏見奉行屋敷の茶室」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は伏見奉行屋敷に作られた茶室
についてご紹介します。
政務と茶の湯が密接に結びついたものであった
ことは先週ご紹介しました。
その屋敷内の三つの茶室
松翠亭・転合庵・成趣庵
についてお話したいと思います。
「松翠亭」は奉行屋敷の東南隅に位置する数寄屋です。
この平面図が寛永十八年の松屋会記に記されています。
四畳台目で採光に工夫が凝らされていて
窓が九箇所、突き上げ窓三箇所、
計十二箇所の窓がついています。この「松翠亭」は
鎖の間である広間に繋がっていました。
現在静岡金谷のお茶の郷博物館に復元されています。
別棟として立つ茶屋として「転合庵」と「成趣庵」が
後に建てられました。
「転合庵」は焼失してしまいましたが、小室屋敷の
茶室と同名で移築したものとも考えられます。
「成趣庵」は転合庵よりさらに奥まったところに
作られ、家臣の勝田八衛が常に茶室に控え、
晩年の遠州公が屋敷内を散策する際にお茶を点てていました。
この成趣庵の露地には紅梅が植えられており
見頃を迎えると親しい友人を誘っていた
手紙が残っています。
宗家の茶室もこの「成趣庵」と同名で、やはり露地には
見事な紅梅が植えられています。
2月 20日(金)遠州公少年時代
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公が小堀村で産まれ、
過ごした時は、そう長くはありません。
天正十三年(1585)
豊臣秀吉が、弟秀長と共に五千人の家来を
連れて大和の郡山城に入城します。
遠州公の父である新介も秀長の八老中の一人
として城内に屋敷をもらい、
遠州公も共に郡山に移り住みます。
遠州公が七歳から
十七歳までの約十年間を
この郡山で過ごすこととなります。
織田信長の支援を受けた筒井順慶が大和を統一し、
天正8年(1580)筒井から郡山に移り、
明智光秀の指導で城郭の整備にかかりました。
この郡山城と光秀の作った福知山城に共通の特徴があります。
転用石といって城郭の石垣に仏塔や墓石など、多目的で
使用されていた石をわざと見えるように、使用したものです。
ところが、本能寺の変から山崎の合戦
(ここで洞ヶ峠を決め込むという言葉が生まれます)
順慶の死、後を継いだ定次の伊賀上野へ国替と
状況は次々と変化していきます。
秀長が入城する五年前に、織田信長はここ
郡山城以外の大和の城を全て取り壊していたため
唯一の城下町であり、更に秀長は奈良での味噌・酒・木材の
販売を禁止し、郡山に限る政策を行ったため、
郡山は更に栄えていきます。
また、堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地でもありました。
ここで遠州公は後の人生を方向付ける
いくつかの出会いがありました。
来週はその出会いについてご紹介します。
2月11日 (水)茶入の巣蓋
ご機嫌よろしゅうございます。
昨年、3月15日にご紹介した「在中庵」茶入の
巣蓋にこんなエピソードがあります。
巣蓋とは象牙の真ん中に通る神経を景色にして
作られた茶入の蓋です。
当時象牙自体貴重でしたが、この「巣」を景色にした
ものはとりわけ珍重されました。
利休から遠州公の時代、この「巣蓋」はまだ存在使用されず、
織部が最初に取り入れたと、遠州公が語っています。
そして、遠州公は中興名物茶入れを選定し、
歌銘をはじめ、箱・挽家、仕覆といった次第を整えていく際に、
牙蓋も一つの茶入れに何枚も付属させており、多様性をもたせる為に
巣のある蓋を好んで用いました。
牙蓋の景色として巣を取り入れたことにより、
巣を右に用いている遠州公に
前田利常公が理由を尋ねたところ、
「客付き(点前座からみて、お客様からみえる方向)
の側に景色を用いるのが自明の理」
と答えたそうです。
遠州公のお客様への配慮、
「綺麗さび」の美意識を感じるお話です。
このお話を知ると、美術館などで
遠州公所縁の茶入が展示されていると
つい巣蓋の巣の位置に目がいってしまいます。
日々の稽古でも蓋のの向きに注意して
お稽古なさってください。
11月 16日 遠州公と高取焼
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は先週に引き続き、
遠州公と高取焼についてのお話を
ご紹介します。
高取焼の茶入で有名なものの一つに
「横嶽」という銘の茶入があります。
御所持の茶入 一段見事に御座候
染川 秋の夜 いづれもこれには劣り申すべく候…
前廉の二つの御茶入は御割りすてなさるべく候…
(「伏見屋筆記 名物茶器図」)
黒田忠之公が遠州公に茶入を見せて、
命銘をお願いしました。
遠州公はこの茶入のでき上がりを賞讃し、
先週ご紹介した、二つの茶入「秋の夜」「染川」
よりも優れているとして、前の二つは割捨ててしまいなさい
とまで言っています。
そして九州の名勝横嶽にちなんで銘をつけました。
過去火災に遭い、付属物を消失し釉薬の色も多少変わって
しまいましたが、形はそのままに
現在熱海のMOA美術館に収蔵されています。
10月25日 遠州公の愛した茶入
「玉川(たまがわ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州蔵帳所載の茶入「玉川」を
ご紹介します。
その景色から遠州公が
いまぞ見るのちの玉川たづねきて
いろなる浪の秋の夕暮れ 碧玉集
から銘命したといわれています。
遠州公の茶会では特に使用の記録ありませんが、
挽家の金字形は遠州公の筆跡で「玉川」とあり、
遠州公筆の和歌色紙の掛け物が添っています。
遠州公所持の後、土屋相模守、松平弾正、神尾左兵衛、
寛政の頃には(1789ー1800)信濃国上田城主松平伊賀守
江戸十人衆河村家を経て松浦心月伯爵に伝わり、
後に藤原銀次郎に伝わりました。
9月 27日 名物道具を拝見するには?
ご機嫌よろしゅうございます。
昨日は鷺の絵をご紹介しました。
そして遠州公が若干16歳でこの絵をみることが
できたこともお話ししました。
当時は美術館も展覧会もありません。
観たいと思う道具があったら、
その道具を持つ人の茶会に招待されなければ
みることは出来ないのです。
そして所有者も
この人なら見せてもいいなと思う人しか
呼ばないわけで、客には相応の知識と教養が必要
でした。
つまり、名物道具を拝見出来たということは
茶人として認められたという格を示すことにもなりました。
お金を出せば、いつでも博物館で名物道具を
拝見できる今とは違い
当時の茶人は常に真剣な気持ちで
名物道具と対峙していたのでしょう。
8月 22日 あるエピソード
ご機嫌よろしゅうございます。
19日にご紹介した定家様にちなんで
エピソードを一つご紹介します。
当時大変な人気のあった定家の一幅を
なんとか手に入れようと皆必死になっていましたので
本物に混ざって定家の筆では無いものも出回っていました。
ある日、加賀前田家でも一幅手に入り、
定家様の権威である遠州公が茶会に招かれました。
遠州公がどんな批評をされるのか
襖の奥から皆注目していましたが、
とうとう茶会の最後まで遠州公はその
掛け物について何もおっしゃいませんでした。
不思議に思った前田公は、茶会の後遠州公の屋敷に
使いを出し
「先ほどの定家はいかがでしたか?」
と尋ねますと
「あれは私が書いたもので、誰かが手に入れて
定家にしてしまったのでしょう。
自分の字を褒めるわけにはいきません。」
と話されたといいます。
8月19日 藤原定家(ふじわらのていか)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は藤原定家の命日です。
定家は平安末期の歌人で、新古今和歌集、
新勅撰和歌集と、二つの勅撰集の編者となりました。
遠州公は当時、「定家様」の第一人者
であり、また「歌銘」も多く付けたことから
定家は遠州流では比較的馴染みのある歌人かもしれません。
「定家様」とは藤原定家の筆跡を踏襲するもので
同じ時代の消息などに比べると流麗とは
言い難い、特徴的な字体といえるでしょう。
これは本人も「悪筆」と認めていたところですが
印刷技術のない当時、書物は全て筆で写していたわけで
一つ一つの文字がしっかりしている
定家の字体は早く正確に書写するのに非常に適していました。
後に定家様、また小倉百人一首を書いた色紙は
茶人の間に大変な人気となるわけですが
この辺についてはまた次回。
6月 20日 遠州公の会席
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公が会席で使用した「角切らず」の縁高について。
私達がよく目にする縁高は、
木地に漆をかけた、いわゆる塗り物が
ほとんどではないかと思います。
遠州公の時代、
木地のままの器が会席でよく使用されました。
漆をかけていないので、当然器に盛った食べ物
の汁などで染みができてしまいます。
そのお客様のためだけの、一度きりのもの
という意味で、使い回しのきかない
木地の器は、当時塗りものよりも正式なものでした。
遠州公の会記には
「木地 縁高 角不切(すみきらず)」と書かれており
一枚のへぎ板( 鉈を使わず手で割いた板)
で切らずに作った大変手間のかかる器を使用しています。
5月30日 遠州好 「七宝文(しっぽうもん)」
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州公の好んだ「七宝文」をご紹介します。
遠州流の、様々なものにこの文様が入っておりますので
皆様にもお馴染みのものと思います。
正しくは「花輪違い」と呼ばれます。
以前は「鶴の丸と丸に卍」が小堀家の紋でしたが
遠州公によって小堀家の定紋と定められたもので、
多くの茶道具にあしらわれています。
七宝文自体を形どって作られているものは唯一
「七宝透蓋置(しっぽうすかしふたおき)」
が好まれています。
またオランダのデルフトへ注文したと思われる
箱書きは「をらむだ筒茶碗」にもこの文様を上部にめぐらせて
いて、今の時代にみてもモダンな茶碗です。