2月26日(金)能と茶の湯
「尾上釜(おのえがま)」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週に引き続きまして「高砂」に
ちなんだ茶道具をご紹介します。
今日は「尾上釜」です。
播磨(兵庫県加古川)尾上神社所蔵の朝鮮鐘
(ちょうせんがね)を形どって作った釜で
あることから「尾上」と名付けられ
五郎左衛門作と極められています。
鐶付が獅噛、共蓋に竜頭のつまみが通常の作りで
蓋裏に「尾上の鐘」の文字が鋳出してあります。
胴の正面に「播州」と「高砂」、
裏側に「尾上」の文字を鋳出しています。
能「高砂」では、竹さらいと杉箒を持った尉と姥が
囃子にのって静かに歩み出て、橋掛りで
向かいあい、
高砂の松の春風吹き暮れて
尾上の鐘も響くなり
と謡います。
9月 2日(水)遠州流茶道の点法
名残(なごり)
ご機嫌よろしゅうございます。
昨年もご紹介しましたが
名残のお茶は本来、口切で開いた茶壺の茶が
残り少なくなったことを惜しむもので
そのお茶を客様に振る舞うのが名残の茶事です。
また風炉の最後で、時候も秋めいてくる頃
過ぎ行く季節を名残惜しむという意味でも
使われます。
その哀愁の気持ちを表すように、道具組では、
たとえ茶碗ににゅうがはいっていたり、
呼び継ぎのあるものでも愛おしく使用します。
趣のあるやつれた大振りな鉄の風炉など
日頃は用いるのも控えめにした
どこか風情のある、ひえ枯れた道具を用いて
この時期ならではの茶の湯を楽しみます。
また花も、風炉の季節の最後
力いっぱいに咲く残花を侘びた花入に入れます。
8月 26日(水)遠州流茶道の点法
「拝見について」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は茶入・仕覆の拝見について
お話したいと思います。
通常拝見の声をかける際には、まずお茶入の拝見を
所望し、その後別に仕覆・茶杓拝見と
一つ間を置いて所望します。
同時に拝見を所望しないのは、
袋は茶入の付属品であるからという考えからで
本来拝見を所望するのは茶入のみでした。
松屋会記には、若き日の片桐石州が遠州公に
拝見を所望し、無言でポンっと袋をほおられた
という話が残っていますが、茶入のみならず
袋の所望をした石州に野暮なことを言うと
遠州公が思われたのでしょう。
名物裂ということで珍重された袋を見たい場合、
遠州流茶道では
「とてもの儀にお仕覆、お茶杓拝見」
と所望していました。
4月 22日 (水)遠州流茶道の点法
「袋茶碗(ふくろちゃわん)」
ご機嫌よろしゅうございます。
3月25日にご紹介しました茶碗披きのお点法で
披露した茶碗に、亭主がその茶碗の格に応じて
裂を選んで仕服を作ったり、またお客様から
名物裂などを贈られたときに、その裂で仕服を
着せたりします。
そのため、お茶碗を披露した際と同じお客様を
改めてお招きし、今度は茶碗ではなく袋を
ご覧に入れるお点法が袋茶碗です。
茶道具に添えられる仕服の紐結び、
もともとは茶の湯が武将の戦略の一つになっていた時代、
高い身分の方に茶を差し上げる役の間で
主君の暗殺を防ぐため、自分一人の心覚えの封印結びを
したのがはじまりといわれています。
その結び方は文箱の封じ結びと同じように
紐が解かれているとすぐにわかるようになっており
教えることも習うこともない
幻の紐結びとされていたそうです。
戦国時代が終わると、このような封印結びとしての
意味合いも徐々に薄れ、花鳥風月に結びを託すようになったと
されています。(「茶の結び緒 」 淡交社)
遠州流茶道の袋茶碗の結び方は飾り付けに十三種類、
しまい込みに二種類あり、
季節やその裂の状態に応じて結び方を変えています。
2月28日 利休命日
天正十九年(1591年)の今日2月28日
茶の湯の大成者
千利休が切腹し、この世を去りました。
秀吉の怒りを買い
切腹となった原因には諸説あります。
・わび・さびを重んじる利休に対して、
派手好みの秀吉と対立するようになった
・茶道具を高額に売り、利を上げていた
・秀吉が利休の娘を側室にと望んだことを断ったため
・大徳寺の山門に利休の木像を掲げた
等々
真相は今もなお大きな謎ですが
秀吉が、茶の湯を利用して
柔軟に諸大名を支配下とし、治安の統制を
はかるため登用した利休が
商人でありながら
大名以上に力を持つ存在となり
身分制度を確立していく段階において
不都合なものになっていったことも
大きな要因と考えられます。