2月 3日 (金)茶の湯と文様
「早蕨」
ご機嫌よろしゅうございます。
厳しい寒さの中芽をだす早蕨は、私達に
待ち望んだ春の到来を教えてくれます。
蕨は常緑性のシダ植物で日当たりのよい
山地に生え,早春先端がこぶし状に巻いた新芽が
地下の根茎上から直立して生えてきます。
これを山菜として食用に、また根茎から蕨粉を
とり、わらび餅などにつかわれます。
先端がくるくると巻かれたその独特な形は
土器や古墳にも描かれ、万葉の頃から春を告げる
植物として歌われてきました。
茶道具の中では、
桃山時代の「黒織部蕨文茶碗」があります。
五本の蕨が上に向かうシンプルなデザインですが、
力強い芽吹きを感じさせます。
また釜の鐶付にも早蕨をモチーフとしたものが
よく見受けられます。
またその景色に蕨の姿を感じ取って「さわらび」の
銘をつけられた魚斗屋茶碗が東京国立博物館に所蔵されています。
五世宗香政峯公が源実朝の歌集である「金塊和歌集」から
さわらびのもえいづる春に成りぬれば
のべのかすみもたなびきにけり
の歌より命銘したと言われています。
6月 5日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「江戸城での茶会」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は江戸城で行われた茶会について
ご紹介します。
元和六年(1620)
江戸城で秀忠の茶会に諸事承る
将軍秀忠が行った茶会についての
遠州公の自筆記録が残っています。
年号が記されておらず、明確ではありませんが
遠州公四十三歳の頃には既に将軍秀忠の茶会に
たずさわっていたと考えられ、
織部が亡くなった翌年から元和四年(1618)
の間三十八歳から四十歳の間に
秀忠の将軍茶道指南役になったと思われます。
また元和九年(1623)から寛永九年(1632)の約十年
遠州公四十五歳から五十四歳の頃は
伏見奉行、大坂城や仙洞御所の作事奉行を
兼務し同時に、茶の湯においても
大御所となった秀忠・将軍となった家光の
双方の指南役として活躍し、多忙な日々を送っていた時期でした。
4月 17日(金)
遠州公所縁の地を巡って 「将軍秀忠の御成」
ご機嫌よろしゅうございます。 龍光院に孤篷庵を営んだ年の十一月八日。 遠州公の江戸屋敷に将軍秀忠の御成がありました。 神田と牛込門内にあった遠州公の屋敷のうち 御成があったのは日常の屋敷である神田でした。 現在でいう千代田区駿河台三丁目辺り、オフィスビルが 立っています。 八畳敷の書院に二畳敷きの上段の間格天井などの 豪華な装飾が施された部屋に炉が切られており、 秀忠にはこの書院でお茶を差し上げたと思われます。 将軍が公式に臣下の屋敷を訪問するこの御成は、 将軍の威光を示し、主従関係を再確認する場として 機能していました。 もともと室町将軍家で行われており、それに倣い 新たな嗜好を加え、秀吉も行っていました。 特に二代将軍秀忠は、茶事を公式の行事にとり入れた 「数寄の御成」を展開します。 遠州公江戸屋敷御成の日。 この日秀忠は織部の茶会に出席しており その直後の御成であったようです。 織部から遠州へ 茶の第一人者としての将軍指南引き継ぎの布石と なったであろうことが推察される御成でした。
2月11日 (水)茶入の巣蓋
ご機嫌よろしゅうございます。
昨年、3月15日にご紹介した「在中庵」茶入の
巣蓋にこんなエピソードがあります。
巣蓋とは象牙の真ん中に通る神経を景色にして
作られた茶入の蓋です。
当時象牙自体貴重でしたが、この「巣」を景色にした
ものはとりわけ珍重されました。
利休から遠州公の時代、この「巣蓋」はまだ存在使用されず、
織部が最初に取り入れたと、遠州公が語っています。
そして、遠州公は中興名物茶入れを選定し、
歌銘をはじめ、箱・挽家、仕覆といった次第を整えていく際に、
牙蓋も一つの茶入れに何枚も付属させており、多様性をもたせる為に
巣のある蓋を好んで用いました。
牙蓋の景色として巣を取り入れたことにより、
巣を右に用いている遠州公に
前田利常公が理由を尋ねたところ、
「客付き(点前座からみて、お客様からみえる方向)
の側に景色を用いるのが自明の理」
と答えたそうです。
遠州公のお客様への配慮、
「綺麗さび」の美意識を感じるお話です。
このお話を知ると、美術館などで
遠州公所縁の茶入が展示されていると
つい巣蓋の巣の位置に目がいってしまいます。
日々の稽古でも蓋のの向きに注意して
お稽古なさってください。
8月 29日 遠州公の白
ご機嫌よろしゅうございます。
8月8日に、遠州公が抹茶の製法を
「白茶」に戻したお話をいたしました。
そして織部の緑
これには茶人の好みが反映されています。
それぞれの茶人の好みをシンプルに色で表すとするなら
利休の「黒」
織部の「緑」
遠州の「白」
とお家元は表現しています。
全てを包有する、他の存在を許さない「黒」
己の感性を先鋭に表した「緑」
「黒」も「緑」をも受け入れることのできる「白」
利休、織部の茶は己の精神.主観性を追求するもの。
それに対して
遠州はその日のお客様に合わせて
その好み・趣向を考え、道具の取り合わせを自在に
変えるなど相手の心を映した茶でした。
オリンピック招致で話題となった
「おもてなし」の日本の心ですが、
茶の心、とりわけ
この遠州公の「白」の好みが生きているような気がいたします。