4月 22日(金)能と茶の湯

2016-4-22 UP

4月 22日(金)能と茶の湯
「くせ舞」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は能にちなんだ遠州公ゆかりの
お道具を御紹介します。
遠州蔵帳記載の茶杓に「くせ舞」
という銘の茶杓があります。

節の部分に波紋のような綺麗な模様が
出ており、数ある遠州公の茶杓の中でも
秀逸の一本です。

くせ舞は扇を持って鼓を持ち、一人から二人で
舞う中世の芸能の一つでしたが、この音曲を
能に取り入れ、能の「クセ」と呼ばれる小段が
成立したとされています。
織田信長が舞ったとされる「幸若舞」も、当時の曲舞
の一つだったようです。

この「くせ舞」の節回しが面白いということから、
「節おもしろし」にかけて、「くせ舞」
と命銘されました。後に益田鈍翁が所有し、
大いに自慢しました。

2月 20日(金)遠州公少年時代

2015-2-20 UP

2月 20日(金)遠州公少年時代

ご機嫌よろしゅうございます。

遠州公が小堀村で産まれ、
過ごした時は、そう長くはありません。

天正十三年(1585)
豊臣秀吉が、弟秀長と共に五千人の家来を
連れて大和の郡山城に入城します。
遠州公の父である新介も秀長の八老中の一人
として城内に屋敷をもらい、
遠州公も共に郡山に移り住みます。

遠州公が七歳から
十七歳までの約十年間を
この郡山で過ごすこととなります。

織田信長の支援を受けた筒井順慶が大和を統一し、
天正8年(1580)筒井から郡山に移り、
明智光秀の指導で城郭の整備にかかりました。

この郡山城と光秀の作った福知山城に共通の特徴があります。
転用石といって城郭の石垣に仏塔や墓石など、多目的で
使用されていた石をわざと見えるように、使用したものです。

ところが、本能寺の変から山崎の合戦
(ここで洞ヶ峠を決め込むという言葉が生まれます)
順慶の死、後を継いだ定次の伊賀上野へ国替と
状況は次々と変化していきます。

秀長が入城する五年前に、織田信長はここ
郡山城以外の大和の城を全て取り壊していたため
唯一の城下町であり、更に秀長は奈良での味噌・酒・木材の
販売を禁止し、郡山に限る政策を行ったため、
郡山は更に栄えていきます。

また、堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地でもありました。

ここで遠州公は後の人生を方向付ける
いくつかの出会いがありました。
来週はその出会いについてご紹介します。

遠州公出生の逸話

2015-2-6 UP

2月 6日(金)遠州公出生の逸話

ご機嫌よろしゅうございます。

遠州公は近江小堀村で、新介を父に生まれた…
とご紹介しましたが、

実は、小堀遠州は浅井長政の忘れ形見である
という逸話が伝わっています。

浅井長政は、もともと遠州公の父新介が仕えており
織田信長に攻められ、落城した小谷城の悲劇は有名です。

その際、長政の長男万福丸は極刑となりますが
お市の方とその娘三人が助け出されます。

このとき実はお市の方にはもう一人、
生後間もない赤ん坊がいたのです。
その乳飲み子は、小谷城落城の際乳母に助けられ
無事脱出し、当時神照寺に出家していた
遠州の父新介に預けられたというのです。

そしてその乳飲み子が後の遠州公になったのだとか

真相は定かではありませんが、
遠州公が偉大な功績を残した故に生まれた逸話では
ないでしょうか。