8月17日 秀吉の黄金お茶室
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は官兵衛の時代のお話を。
秀吉といえば黄金の茶室が有名です。
天正十四年、禁中に黄金の茶室を持ち込み、
茶会が行われました。
天井から壁、茶道具に至るまで金色で
埋め尽くされた三畳敷きの茶室。
豪華絢爛の趣向、侘びとは真逆に感じますが
これは決して成金趣味というようなものではなく、
天皇陛下にお茶を差し上げるための相応な設えだった
と捉えるほうが正しいようです。
天皇陛下にお使いいただくお茶道具が
既に人の触れたものであってはならないので
使用するものは全て新品。
そして、不可侵的存在である天皇陛下を茶の湯でもてなす
禁中で茶会が催されたということは
天皇陛下をもてなすのに「茶の湯」が選ばれたということであり
茶人にとってはこの上もない誉れでありました。
3月16日 官兵衛(遠州公郡山時代)
ご機嫌よろしゅうございます。
日曜日になりましたので
大河ドラマに関連したお話しを。
織田信長が光秀に打たれ、
官兵衛の一言に我に返った秀吉が
その後明智を破り、天下を握ることとなりました。
この本能寺の変の後
秀吉の関白就任、秀長転封と続き
これに伴い、遠州の父も郡山に移ったことは
以前お話しました。
この時遠州七歳。
これから十七歳までの約十年間を
この郡山で過ごします。
遠州が十歳の時、
初めて利休に会うことになります。
天正十六年(1588)
秀長が秀吉を招いた茶会が行われ
その秀吉へお茶を運ぶ役に選ばれます。
その茶の湯の利休を呼び寄せ
前日の秀長は直接指導を受け、幼少の作介(遠州)
もまた利休の言葉を
耳にしたのです。
天下人であっても茶の湯を通じて
対等に接することができる
それを目の当たりにした茶会となります。
この十歳の出会いは後の
遠州に大変大きな影響を与えたのでした。
2月28日 利休命日
天正十九年(1591年)の今日2月28日
茶の湯の大成者
千利休が切腹し、この世を去りました。
秀吉の怒りを買い
切腹となった原因には諸説あります。
・わび・さびを重んじる利休に対して、
派手好みの秀吉と対立するようになった
・茶道具を高額に売り、利を上げていた
・秀吉が利休の娘を側室にと望んだことを断ったため
・大徳寺の山門に利休の木像を掲げた
等々
真相は今もなお大きな謎ですが
秀吉が、茶の湯を利用して
柔軟に諸大名を支配下とし、治安の統制を
はかるため登用した利休が
商人でありながら
大名以上に力を持つ存在となり
身分制度を確立していく段階において
不都合なものになっていったことも
大きな要因と考えられます。