8月 28日(金)遠州公所縁の地を巡って

2015-8-28 UP

8月 28日(金)遠州公所縁の地を巡って
「江戸城の庭」

ご機嫌よろしゅうございます。

寛永六年(1629)五十一歳
二条城の作事の途中、
江戸から急なお召しがあり、参府します。

大御所秀忠の命により、西の丸新山里
の露地・池を含む築庭の指揮を
とることになりました。
西の丸は大御所隠棲の館。
遠州公の作事奉行としての実績に加え、茶人と
しての評価の高さ故の命でした。

その後も寛永七年、十三年と二の丸庭園の
作事の指揮もとります。
その後家光の代での改修、
現在皇居東御苑に残る二の丸庭園は、
後の火災により焼失し、復元されないままに
なっていたものを
昭和三十六年から六年かけて整備、
九代将軍徳川家重の時代に作成された
庭園の絵図面を参考に造られたものです。

現在の庭園は遠州公当時のものではありませんが、
「白鳥濠」には「野面積み」という手法
で積み上げられた自然石の美しい濠の一部が残って
います。
遠州公はこの石垣を生かし、桟敷席と能舞台を
設置した斬新な設計で、招待されたお客様
を大変驚かせたようです。

6月 8日 (月) 太田道灌と蓑傘

2015-6-8 UP

6月 8日 (月) 太田道灌と蓑傘

ご機嫌よろしゅうございます。

梅雨の時期の外出に傘は欠かせません。

そして昔は雨の時、蓑を使用していました。
今日はこの蓑にまつわる太田道灌のお話をご紹介します。

太田道灌は江戸城を造ったことで有名です。
築城の名人で、また歌人としても知られた武将でした。

さて、神田川の桜並木に「面影橋」という橋が架かっており
この面影橋に「山吹の里」という石碑があります。

ある日、鷹狩に出かけた若き道灌が、
にわか雨に遭遇し、村のあばら家で蓑を借りようとしました。
しかし家から出てきた少女は無言のまま、
山吹の一枝を道灌に差し出します。

その意味が分からない道灌は怒って
その場を立ち去りましたが
あとで家臣から

七重八重 花は咲けども山吹の
実の一つだになきぞ悲しき

という後拾遺集の歌に寄せて、少女が
蓑のひとつさえ持てないかなしさを
山吹の枝に託したのだと聞かされます。
自分の無学を恥じた道灌は
それ以降歌道に精進したといわれています。

6月 5日 (金)遠州公所縁の地を巡って 「江戸城での茶会」

2015-6-5 UP

6月 5日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「江戸城での茶会」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は江戸城で行われた茶会について
ご紹介します。

元和六年(1620)
江戸城で秀忠の茶会に諸事承る

将軍秀忠が行った茶会についての
遠州公の自筆記録が残っています。

年号が記されておらず、明確ではありませんが
遠州公四十三歳の頃には既に将軍秀忠の茶会に
たずさわっていたと考えられ、
織部が亡くなった翌年から元和四年(1618)
の間三十八歳から四十歳の間に
秀忠の将軍茶道指南役になったと思われます。

また元和九年(1623)から寛永九年(1632)の約十年
遠州公四十五歳から五十四歳の頃は
伏見奉行、大坂城や仙洞御所の作事奉行を
兼務し同時に、茶の湯においても
大御所となった秀忠・将軍となった家光の
双方の指南役として活躍し、多忙な日々を送っていた時期でした。