2月 20日(月)「宿の梅」
我が宿の梅の立ち枝や見えつらむ
思ひの他に君がきませる
ご機嫌よろしゅうございます。
今週の25日には御自影天神茶会が行われます。
菅原道真公といえば梅の花
太宰府に左遷となった道真
その道真を追いかけて梅の木が飛んで行ったという
「飛び梅伝説」。
この故事から、「道真」と「梅」という結びつきが
天神信仰の広まりと共に鎌倉中期以降に大衆に浸透します。
また「梅」は文様としても多く描かれていることは
先月にもご紹介しました。
さて、冒頭ご紹介しました梅の歌にちなんだ銘の茶入
「宿の梅」があります。
江戸時代初期、薩摩で焼かれたこの茶入は
白地の下地が褐色釉のところどころから見え隠れし
まるで梅のような景色を作っています。
後藤三左衛門所持から「後藤」ともよばれ、
遠州公が「拾遺集」の平兼盛の歌から命銘しました。
2月 9日 (月) 梅の花
ご機嫌よろしゅうございます。
そろそろ宗家の庭にある紅梅も蕾を
膨らませてくる頃となりました。
その昔、遠州公の愛した紅梅も、
伏見奉行屋敷内にあった成趣庵の庭で
見事な花を咲かせていたようで、
遠州公が親しい友人に送った手紙には
成趣庵紅梅半ば開きにて候
(略)
御見捨て候て 花を御散らせ
有るべき事にてはあらず候
訳;庭の紅梅もそろそろ満開となります。
この見頃の梅をお見捨てなきように
と、情趣溢れる文面で手紙をしたためています。
陽春に先駆けて花をつけるこの花を、日本人は
古くから愛し、万葉歌人も多くの歌を
残しています。
天平・奈良期当時の梅花といえばほとんどが
白梅であったようです。
平安時代にも紅梅は珍しかったようで、
「むめ」「紅梅」と区別していました。
そして日本では、年の最初に咲く梅を兄
最後に咲く菊を弟といい
花を育てる雨は父母と表現します。
厳しい冬が過ぎ、暖かい春がきたよと
私たちに告げてくれる
梅の花です。
6月 18日 いい塩梅(あんばい)
ご機嫌よろしゅうございます。
梅雨の季節は梅のなる頃というお話を
昨日いたしました。
梅といえば
「いい塩梅」という言葉がありますが、
これはお塩とお酢のことです。
塩は人体に不可欠なもの
また食酢が普及する以前は、梅の塩漬けで出来る
梅酢が利用されました。
ここから味加減のことを「塩梅」という言葉が生まれます。
この塩と酢が日本の調味料の原型です。
これに後々醤油やひしおが加わっていきます。
古来、上流階級の料理は、食事とともに調味料が出され
食べる本人が味をつけて食べるスタイルでした。
それが茶の湯において限られた空間の中、
食事をいただくようになってはじめて
(調味料を出せないため)予め味付けをしてお出しする、
現在に通じる調理法と
なったのです。
現在月刊「遠州」に掲載中の宗有公の「数寄記録」
において12ヶ月の献立が記されていますが、ここで
「夫(それ) 会席の献立 趣向 塩梅は
浜の真砂にて 何ぞ極まらむ」
と書かれています。
6月 17日 梅
ご機嫌よろしゅうございます。
うっとおしい梅雨が続きますが、
「梅雨」の語源は、梅の実が熟す季節に降る雨
といわれています。
初春に美しい花を咲かせていた梅は、
この時期、丸くて青い実をつけます。
梅酒につけるには青くてかたい実を
梅干しは完熟のものが適しています。
梅干しは平安時代には既にあったようで
当時は、熱さましなどの薬用として食されていました。
戦国時代、武将達は
食糧袋に「梅干丸(うめぼしがん)」
を常に携帯していたそうです。戦場で倒れたときや元気を失った
時、 また合戦中の休息に梅干しを見て唾液分泌を盛んにし
脱水症状を防ぐ目的にも使われました。
梅干しは戦略物資の一つとなり、
武将たちは梅の植林を奨励したそうです。
現在でも梅の名所や梅干しの産地として残っています
2月10日 梅
ご機嫌よろしゅうございます。
今日はそろそろ見頃を迎える
「梅」についてお話をしたいと思います。
今日私達が花見といって思い浮かぶのは
桜かと思いますが、
奈良時代には花といえば
梅を指すことの方が主でした。
お雛飾りにも添えられる
「左近の桜 右近の橘」は
平安京の紫宸殿(ししんでん)
に植えられていたものですが
これも創建当初は桜ではなく
梅が植えられていました。
桜が広く好まれるようになるのは
万葉の奈良から世代も移り変わった
平安時代もなかばからのことです。
【告知】
福岡中洲大洋にて「父は家元」
上映開始。
(1)10:10(2)12:05(3)14:00
15日以降は未定
映画 父は家元 公式ホームページ