11月 20日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記」(2)
ご機嫌よろしゅうございます。
先週に引き続きまして今日は「道の記 下り」を
ご紹介します。
「下り」が記された寛永十九年(1642)は
先日ご紹介した遠州公の江戸四年詰めが始まる
年でした。
「徳川実記・大猷院記」には五月二十六日に
将軍に参謁したという記録があります。
その江戸行きの前に、遠州公は江月和尚や京都所司代
などの親しい人を招いて、名残を惜しむかのように
「在中庵」や「飛鳥川」茶入などで茶会を催しています。
この旅が親しい人達との今生の別れとなる
と感じていたのではとも思える、
寂しさの感じられる節々もあり、
今一度京都へ戻りたいと願う心が読み取れます。
心を共にした友人たち、松花堂、長闇堂は既に
この世におらず、江月和尚も遠州公が
江戸に出府中の寛永二十年、十一月に
この世を去っています。
11月 20日 片桐石州
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は片桐石州についてお話しします。
天正十一年(1583)生まれ。賤ヶ岳の七本槍の
一人として有名な片桐且元の弟だった貞隆の子
として生まれます。
江戸時代に京都知恩院などの普請奉行を務める間、
京で遠州公や宗旦、金森宗和、松花堂などとの交流
を深め、茶の湯の実力が磨かれていったようです。
若き石州はそれら大先達にその器量を試される
時期であったようで、遠州公や宗旦の茶会に参会し、
石州の茶の師であった、桑山左近の教え以上の話を
ふられたりしていたという話が残っています。
(「松屋会記」「元伯宗旦文書」) →要確認
後に四代将軍家綱の所望で、点茶の式を行い、
徳川家秘蔵の名物道具の鑑定をする御道具奉行になります。
「石州三百か条」は後の柳営茶道の規範にもなりました。
四代目の将軍茶道指南役ともなり、
遠州公の後継者的役割を果たしました。
延宝元年(1673)六十九歳で亡くなります。
11月 8日 遠州公の愛した茶入
「伊予簾(いよすだれ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州蔵帳帳所載の茶入「伊予簾」
をご紹介します。
この茶入の形が編笠に似て、もの侘びた姿を
していること、また鶉のような斑模様をしている
ことからから遠州公が詞花和歌集 恋下の
逢ふことはまばらに編める伊予簾
いよいよ我をわびさするかな 恵慶法師
の歌の意味をもって銘命されたと言われています。
遠州公の茶会記では、
寛永十四年(1637)十二月二日夜に、江月和尚
松花堂昭乗を招いてこの茶入を用いています。
この茶入に添っている仕服の一つは「伊予簾」と
呼ばれています。
このように、茶入の銘から仕服の呼称がつけられたものを
名物裂と言います。
小堀家の手を離れ、所有者を転々とした後、
現在では昭和美術館の収蔵品となっています。
9月 18日 松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公と大変交流の深かった
松花堂昭乗についてお話しします。
遠州公の正室の妹が、中沼左京元知の妻となったことで
その左京の実弟であった松花堂との交流が始まります。
松花堂は十七歳で男山石清水八幡に登り、
滝本坊実乗に師事します。
寛永の三筆の一人に数えられ、遠州公、江月和尚との
合作も多く残り、その親交の深さが伺えます。
しかし、松花堂、中沼兄弟はどんなに親しくなった
間柄でも自分達の出自を決して語らなかったと
言われています。
遠州公五歳年少でしたが、遠州公より早く
五十六歳、9月18日に亡くなりました。
その死を悼み、遠州公がこんな歌を詠んでいます。
我をおきて先立つ人とかねてより
しらで契りし事ぞくやしき