26日。
昨日とは打って変わって晴れ間となり、
蒲原の宿を出発。清見が関に差し掛かります。
清見が関は天武天皇の頃東国の敵から駿河国を
守るための関所として置かれました。
その関を保護する目的で置かれた清見寺は、
駿河湾、伊豆の連山を望む景勝地であり、
約1,300年の歴史を持つ臨済宗の寺院です。
家康が今川義元の人質だった頃、教育を受けた
場所としても知られ、江戸時代には朝鮮通信使
の宿泊所としても使われるなど歴史深い寺社です。
遠州公の作った茶杓「清見関」はこの地を訪れた
際に作ったもので、筒に
「清見関荒垣竹東行之次作之」と記され、
『遠州蔵帳』や『雲州蔵帳』に記載があります。
三島から沼津へ移動。一行は黄瀬川のあたりを進んだと考えられます。
この地域を流れる黄瀬川は、いろいろな伝説の多い地でもあります。
室町時代の連歌師飯尾宗祇は、1471年(文明3)この地で戦闘のため陣を張っていた武将・
東常縁(とおのつねより)から古今伝授を受けたといわれています。
「古今伝授」とは「古今和歌集」の解釈等を伝えていくもので、平安時代末、藤原基俊か
ら俊成・定家と代々二条家に伝えられ、その後東常縁に伝わりました。
公家の三条西実隆も宗祇から古今伝授をうけ、その実隆に武野紹鷗が和歌を学びます。
そして和歌の心が茶の湯の中にも影響を与えていくこととなります。
遠州公筆 富士の絵賛
いよいよ富士山が見えてきました。
原の宿近辺の浮島ヶ原と呼ばれる地域は街道一の富士の眺めと称されて、昔から和歌の枕詞としても有名です。
当時活火山であった富士山には煙があがっていました。
その絶えぬ煙に、思い出深い人のことなどを想う己の心の内を重ね合わせて遠州公が歌を詠みます。
わがおもひ いざくらべ見む 富士の根の
けぶりはたえぬ ひまやありなむ
一般の人にとって富士山を実際にみることは、一生に一度あるかないかのことでしたでしょう。
遠州公は、その雄大な姿を多くの歌に詠みまた富士の姿があまりにも美しいので、
懐紙を二人の供の者に持たせて、富士の姿を懐紙に写し取ったといわれています。
写真提供 大有 ギャラリーきほう
写真提供 三嶋大社
三嶋大社は、実は茶の湯に所縁のある神社です。
高麗茶碗の一つに三嶋茶碗という種類がありますが、
その名はこの三嶋大社が関係しています。
室町時代末期に朝鮮半島から日本に入ってきた茶碗の文様が、
当時三嶋大社で発行され広く親しまれていた「三嶋暦」に
よく似ていたため、当時の茶人から「三嶋手(みしまで)」
「暦手(こよみて)」とよばれて愛用されてい ました。
「三嶋暦」は、仮名文字の暦として日本で一番古く、
また木版刷りの品質のよさ、細字の文字模様の美しさから、
旅のみやげやお歳暮などとして人気がありました。
現在では茶の湯をしていなくても目にする、
なじみのある文様ではないでしょうか?
箱根路を越えた遠州一行は
夕焼けとともに山を下り、三島に到着。
かり枕かたぶくるより うたたねの
夢を見しまの ひとのおもかげ
三嶋には遠州公の忘れ難い人との思い出があるようで
「此歌の詞書 思子細有て委(くわしく)かかず…」
と意味深な一文が記されています。
三嶋宿は箱根越えを成し遂げた人々が「山祝い」で
散財した場所として栄えました。
そしてここに鎮座する三嶋大社は、奈良・平安時代から
古書に記録が残る歴史ある神社で、源頼朝が源氏再興を
祈願したことでも有名です。
平成12年には、本殿が重要文化財に指定され、
多くの観光客で賑わっています。
写真提供 三嶋大社
朝から激しく雨風が吹いていましたが、
十時を過ぎる頃には雨も静まり、遠州一行は宿を出発します。
この日は箱根越え。
1618年、江戸幕府は箱根湯本から元箱根に
至る山道を整備しました。
有名な関所の制度が定まったのは寛永2年(1625)のこと。
旧小田原宿から旧三島宿は、特に難所中の難所と言われ、
また揉め事も絶えず「箱根の八里越え」と呼ばれました。
無事に越えることができると「山祝い」といって
主人から郎党に祝儀がでたほどでした。
丸一日かかったといわれる箱根越えですが
遠州公も10時に出発し、日の暮れる午後5時
には箱根に下りており、なかなかの健脚ぶりです。
24日
雨降風不止 けふはここにとどまるべきなどいふ
巳時許りに天晴 風もしづまる 立小田原
湯本相雲寺を経て あしがらの 山にかかる
遠近に重る山々 谷々のこずえ 色々に染出す
にしきをさらすかと うたがふ
あまりの面白きに ゆきもやらず とある岩がねに
たすけられて 独見る 山の紅葉といふ心を
思ふかひ なき世なりけり
あしがらの 山の紅葉も君しなければ
やうやうやまをよぢて 葦河の新宿に着
暫 休息して それより山中の里を過ぎて
夕陽とともに山をくだりて 三嶋の里に着 一宿
折節思ひ出ることありて うたたねの夢見て
かり枕 かたぶくるより うたたねの
夢をみしまの ひとのおもかげ
此歌の詞書 思子細有て委(くわしく)かかず
今宵の宿となる小田原で、思いがけず知り合いが
数人訪ねきて、夜が明けるまで語り明かした遠州公。
一体どんな方が会いにきたのでしょう?
明け方には雨風が激しくなり翌日の箱根越えが思いやられます。
よるなみの聲にめざます かり枕
忍ぶ別の 夢ぞみじかき
小田原宿は江戸を出て最初の城下町にある宿場になります。
山上宗二が小田原北条氏に招かれたことから
茶の湯も盛んであったようです。
また小田原では釜も作られていました。
天明釜の流れを汲み、釜師・西村道冶が元禄13年(1700)に
書いたと伝えられる『釜師由緒』には
「…天猫文字或は天命と云、小堀遠州公御改名と云う、…」
という興味深い一文が記されています。
ご機嫌よろしゅうございます。
藤沢を経て、馬入川を渡し船で渡ると、大磯。
さらに進んでいくと、静かな風と穏やかな波の音が
心地よく聞こえます。
この場所は「こゆるぎの磯」と呼ばれ、古代から
「よろぎ、こゆるぎ、こよろぎの磯」と
万葉・古今・新古今などの歌にも多く詠まれてきた場所です。
明治期には政財界の別荘地として愛されました。
その美しい景色を眺めつつ旅への想いとともに
遠州公が歌を詠みます。
こゆるぎの いそがぬ旅も すぎて行
別路とめよ あしがらのせき
大磯は日本初の海水浴場としてその名を知られ、
現在でも大変人気があります。
写真:大磯観光協会提供
ご機嫌よろしゅうございます。
9月23日 晴
遠州一行は神奈川の宿を早朝に出発します。
帷(かたびら)の里、いまの保土ヶ谷あたりをすぎ、
遠州一行は藤沢に差し掛かります。
藤沢は東海道の江戸日本橋から数えて6番目。
多くの道が集まる場所でもあり、東海道からの分岐点の町として栄えました。
そして藤沢は遠州公の父・新介正次公が亡くなった地でもあります。
慶長9年(1604)2月。江戸出府の途中、相模国・藤沢にて65歳で急逝。
戦乱の世を駆け抜け、ようやく平和をむかえようとしていた時代、
外様であるはずの小堀家は備中を任されるなど、譜代並みの扱いを受け、
政務に奔走しました。
遠州公この時26歳、この旅のおよそ17年前。
そして父の遺領、備中奉行を継ぎ、父と同様忙しい日々を送ることとなります。
藤沢の地に足をいれた遠州公は、亡父に想いをよせていたことでしょう。
写真提供 田中宗未先生