4月 24日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-4-24 UP

4月 24日 (金)遠州公所縁の地を巡って
備中と遠州公

ご機嫌よろしゅうございます。

関ヶ原の戦いで家康の旗本として
加わった遠州公の父、新介正次は
その功により1万石の加増を受け備中松山城を
あずかることになります。

そして慶長九年(1604)
新介正次が亡くなってからも
遠州公が引き続き備中を預かることになります。
紙や鉄の生産の盛んなこの地で
若き時代、代官として活躍した遠州公。

その遠州公の影響は今でもこの街に見ることができます。
今日は備中松山城についてご紹介します。

標高430mにある備中松山城は、
現存天守を持つ山城としては日本一高いお城です。
もとは山陰と山陽の要所として、多くの戦乱の舞台となり
戦の要としての城の役割をしてきました。
遠州公が父・新介正次と共に入国した際には
城は長い戦乱により、城郭も建物も未だ
修復されず、石垣や土塁が残るのみで荒廃していました。
そして泰平の世の到来。
遠州公は城の修復を行い、
備中松山のシンボルとしての優美な山城に姿を変えました。
(後に松山城主となる水谷勝宗も城の修復を行って
います。)

白い漆喰塗りの壁と黒い腰板の美しい天守は、
国の重要文化財にも指定されています。

また現在、御根小屋跡は県立高梁高等学校となっており、
県の史跡に指定されています。
御根小屋とは、城がけわしい山項に築かれた際、
普段の居城となった場所のことを指します。

その建物を城壁に囲まれ、遠州公の手がけたといわれる
心字池を囲む庭に当時のおもかげを忍ぶことが出来ます。
また学校内には茶室が建てられ、多くの生徒が
ここで茶の湯を学んでいます。

4月 17日(金)遠州公所縁の地を巡って 「将軍秀忠の御成」

2015-4-17 UP

4月 17日(金)

遠州公所縁の地を巡って 「将軍秀忠の御成」

ご機嫌よろしゅうございます。 龍光院に孤篷庵を営んだ年の十一月八日。 遠州公の江戸屋敷に将軍秀忠の御成がありました。 神田と牛込門内にあった遠州公の屋敷のうち 御成があったのは日常の屋敷である神田でした。 現在でいう千代田区駿河台三丁目辺り、オフィスビルが 立っています。 八畳敷の書院に二畳敷きの上段の間格天井などの 豪華な装飾が施された部屋に炉が切られており、 秀忠にはこの書院でお茶を差し上げたと思われます。 将軍が公式に臣下の屋敷を訪問するこの御成は、 将軍の威光を示し、主従関係を再確認する場として 機能していました。 もともと室町将軍家で行われており、それに倣い 新たな嗜好を加え、秀吉も行っていました。 特に二代将軍秀忠は、茶事を公式の行事にとり入れた 「数寄の御成」を展開します。 遠州公江戸屋敷御成の日。 この日秀忠は織部の茶会に出席しており その直後の御成であったようです。 織部から遠州へ 茶の第一人者としての将軍指南引き継ぎの布石と なったであろうことが推察される御成でした。

4月 3日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-4-3 UP

4月  3日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「駿府城」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「駿府城」についてご紹介します。

天正期、駿府を拠点にした家康は
駿府城を四年かけて築城
しかし小田原の北条征伐で戦いに勝利した
家康は、関東に国替えとなって江戸に移ります。
家康は完成間近であった
駿府城に入ることが出来ませんでした。

そして慶長5年〔1600〕の関ヶ原の戦いに勝利した家康。
今度は駿府城を身内の内藤三左衛門信成に与えます。
家康が大御所として駿府城主となると、内藤は
長浜城主として琵琶湖の長浜に移りました。

慶長12年秀忠に将軍職を譲り大御所となった
家康はいよいよ修築を終えた駿府城に移り住みますが、
間も無く火災にあってしまいます。
そこで年が明けた慶長13年、
遠州公が駿府城の作事奉行を命じられます。
その功により
従五位下諸大夫遠江守に任命され、
以後小堀遠州と呼ばれるようになるわけです。

遠州公30歳
この一年、遠州公は駿府に滞在していたようです。
また織部も同様に駿府におり、家康へ茶の湯指南や
茶会を催していたようです。

そして残念ながら遠州公の手がけたこの駿府城も
今度は家康没後の寛永12年(1635)
茶町からの出火が原因で城内に飛び火、
豪華絢爛な天守や御殿をほとんど失ってしまいました。

駿府城がどんな城であったのか、わからなくなってしまった
部分も多くありますが、遠州公と大工頭であった中井正清が
後に手がけた二条城とこの駿府城は同じ作り手による
ものであることから、内部の意匠その他が酷似していたと言われ
二条城からその当時の様子を偲ぶことができる
と言われています。

現在では本丸、二ノ丸部分は駿府公園として整備され、
巽櫓、東御門の復元もされ一般に公開されています。

2月27日 大和郡山での遠州公の出会い

2015-2-27 UP

2月27日 大和郡山での遠州公の出会い
ご機嫌よろしゅうございます。

先週は大和郡山についてご紹介しました。
今日はその地で遠州公に影響を与えた
いくつかの出会いをご紹介します。

遠州公がこの地に移り住んで
十歳の歳、
六十七歳の利休に出会います。
主君秀長が秀吉の御成の際に茶の湯で
もてなすため、その指導に訪れたのでした。
秀長の小姓であった遠州公は、茶会当日
秀吉の給仕をする大役を果たします。
利休切腹の三年前のことです。
十五歳、元服をした遠州公は
利休・織部と茶道の道を極めた人物が参禅した
春屋宗園の下で修行します。
後二十九歳で「宗甫」、同時期に「孤篷庵」の号
を与えられます。
遠州公の茶会の中で一番多く掛けられた墨跡も
春屋禅師のものです。

そして同じ頃、茶の湯の師として古田織部の
門を叩きます。後に伏見に住まいを移してからは
織部の屋敷のあった木幡まで一キロ程度の
距離になり、一層師弟関係を深めていきます。

十六歳にして、既に松屋三名物の一つ
「鷺の絵」を拝見するなど、若いながらも既に
後の大茶人への道の第一歩を踏み出したのでした。

遠州公誕生の地「小堀村」

2015-1-23 UP

1月 23日(金)遠州公誕生の地「小堀村」

ご機嫌よろしゅうございます。

遠州流の流祖である小堀遠州は、
近江長浜の小堀村に生まれました。
遠州公を輩出した小堀家は室町時代
中頃から資料に現れる小堀村の土豪でした。

天正7年(1579年)に誕生の後、
遠州公の父・新介正次は、
豊臣秀吉の弟である秀長に従って
但馬や播磨国(現在の兵庫県)に赴き、幼少の
遠州公も父に従って一旦小堀村を離れます。
従って、この小堀村での生活は
あまり長いものではありませんでした。

この地に再び関わりをもつのは、
元和5年(1619)
近江国浅井郡に一万石程の領地を得て、
小室藩の基礎を築き、また同8年には近江国奉行となり、
この地の幕府の人間としての最高責任者になります。

現在の小堀町では、遠州公にちなんだ街づくりが行われ、
小堀遠州出生地顕彰碑や
遠州流庭園などがつくられています。

来週はこの遠州公所縁の地に建つ南郷里小学校での
取り組みについてご紹介します。

遠州公のゆかりの地を巡って

2015-1-16 UP

1月16日(金)遠州公のゆかりの地を巡って

ご機嫌よろしゅうございます。
遠州流茶道の流祖小堀遠州は
天正七年(1579)に生まれ、
正保四年(1647)に六十九歳でなくなります。

近江に生まれ、幕府の官僚として
また茶の指導者として、日本各地と
関わりを持っていきました。
この六十九年の生涯の中の
遠州公ゆかりの地を
当時と今の姿を追いながら
一年間皆様と共に見ていきたいと思っております。

大名茶人にして江戸の優れた官僚であった
小堀遠州。
その功績は広く知られていますが
まだまだ日本の各地で、その地域の人のみが知る
遠州公の逸話や伝説もあるのではないかと
思います。
もしこのメルマガをご覧になって
なにかご自身の身の回りの地域で、遠州公にまつわる
お話をご存知の方がいらっしゃいましたら、
是非お知らせいただきたいと思います。

ご出張、ご旅行の際に遠州公の関わった場所が
近くにあるかもしれません。
そんな時このメールマガジンを思い出して頂けたら
幸いです。

 若き遠州公の話

2014-10-17 UP

10月 17日 若き遠州公の話

ご機嫌よろしゅうございます。

本日は遠州公が茶の湯を始めたころの
お話を。

十五歳で大徳寺春屋宗園禅師に参行し、
修行を積みながら
古田織部のもとで茶の湯を本格的に学んで行きます。

遠州公が十八歳の時に
「洞水門(どうすいもん)」を考案しました。
これは現在水琴窟と呼ばれています。

茶室に入る前には手と口を
蹲(つくばい)で清めます。

当時の蹲は水はけが悪く、
何度か使用すると、周りに水が溜まってしまい
大変使いにくいものでした。

これを若干十八歳の遠州公が
この蹲の地下に瓶を仕込み、
水滴が瓶の中に落ちる時に、ポーンという
美しい反響音がする仕組みを考案し
水はけの問題も解消しました。

遠州公の茶の湯の師であった
古田織部も遠州公の才に大変驚いたと
言われています。

遠州公の愛した茶入

2014-10-4 UP

10月 4日 遠州公の愛した茶入
「正木(まさき)」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は遠州蔵帳所載の茶入「正木」をご紹介します。

この茶入は釉薬のかかり具合が片身かわりとなって
おり、その景色の美しさを正木のかづらの
紅葉に見立てて

深山には霰ふるらし
外山なる正木のかづら色つきにけり
古今集

神無月時雨降るらし
佐保山の正木のかづら色まさりゆく
新古今和歌集

このともに同じような歌意を持つ二首の和歌から遠州公がつけた銘
といわれています。

遠州公所持の後、土屋相模守、細川越中守等の手を経て
現在は根津美術館に収蔵されています。

権十郎篷雪命日

2014-8-4 UP

8月4日 権十郎篷雪命日

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は権十郎篷雪の命日です。
寛永二年(1625)遠州公の次男として生まれ、
後に小堀を改めて小堀家と所縁の深い浅井姓を称し、
権十郎篷雪と称しました。

兄の大膳宗慶とは5歳離れた弟になります。
正保四年(1647)遠州公が没すると、
父の遺領のうち近江国浅井郡の千石を分地されました。

茶会でもよく名を目にする通り、
道具の目利きに優れていたので、その鑑定眼にかなった
道具の箱書が多く伝来しています。

元禄七年(1694)8月4日江戸でなくなります。
70歳でした。

小堀家の家紋

2014-7-11 UP

7月11日 小堀家の家紋

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は小堀家の家紋について

皆様ご存知の「七宝花菱」は小堀家の家紋であり
正式には「花輪違い紋」と呼ばれています。

もともと小堀家の家紋は、表紋として使われていたものが
「鶴の丸」、裏紋として「丸に卍」が使われていました。
当時の武家は二つの紋を持ち、用途で使い分けていました。
それを、遠州公が改めたのが七宝花菱と言われています。
そして今では遠州流の紋としても使用されていることは5月30日にご紹介
しました。

小堀家に伝わる道具には「鶴の丸」に形どった蓋置
が残っています。

遠州公の美意識によって定められた家紋
東京国立博物館に所蔵される甲冑にも
この「花輪違い」の文様をあしらっており
「武」の中にも遠州公ならではの綺麗さびの心を
織り込んでいることが伝わってきます。