12月18日(金)遠州公の墓
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公最晩年のご紹介をいたします。
正保四年(1647)六十九歳
二月の六日に伏見奉行屋敷で亡くなります。
この五日前の二月一日には、伏見の茶亭で
茶会を催したと伝えられており、
その命の尽きるまで、茶の湯の生涯でした。
遠州公の墓は
京都市北区の大徳寺孤篷庵、 東京の練馬区の広徳寺,
滋賀県浅井町の孤篷庵にあります。
京都のお墓は先祖が一人づつ個別のお墓に
祀られており
東京のお墓は宗中公以降の十代目以降は
同じお墓に、
近江孤篷庵は七代目までは別々に
祀られているとのことです。
11月 13日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記(1) 下り」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公の旅日記「道の記 下り」をご紹介
します。
将軍の特別なお召しがあって、
寛永十九年(1642)京都から江戸に向か
います。この際遠州公は旅日記を綴っています。
六月にご紹介しました上りの日記から
二十一年の歳月が流れています。
五十歳位が寿命であった当時にあって
六十四歳という高齢での長旅はさぞかし
体に応えたであろうかと思われます。
更に「上り」では十三日かけて旅した道のり
をこの「下り」では十日で進む急ぎの旅でした。
文中には「上り」同様、和歌や狂歌など交えて
その日通過した場所について、想いとともに
したためていますが、その所々に「伊勢物語」
や「土佐日記」の影響が感じられます。
10月 30日(金)遠州公所縁の地を巡って
「擁翠亭(ようすいてい)」
ご機嫌よろしゅうございます。
昨年の2014年は古田織部の400回忌にあたり
あるコレクターの思いがこもった、私設美術館が
北区鷹峯に誕生しました。
この美術館の建物は、昭和初期に建てられた生糸商人
の山荘にある土蔵を改装していて、茶室をイメージした
作りとなっています。
その敷地内には遠州公所縁の茶室
「擁翠亭」があります。
室町将軍足利義満の管領細川満元が築いた岩栖院を
家康が南禅寺に移し、刀装の彫金師後藤長乗に
与えました。長乗とその子後藤覚乗は、加賀藩主前田利常や、
小堀遠州の助力で「擁翠園」を造営します。
ここに作られたのが「擁翠亭」とよばれる小間の茶室で
この茶室は江戸中期に洛西の清蓮院に移築された後、
明治に同寺院が廃寺となって、解体されました。
その材料は保管されていましたが、長い間忘れられており
平成になって図面と供に見いだされて、
太閤山荘内に移築されました。
この擁翠亭は部屋が七つあり、窓の数も多くて十三あることから
別名を「十三窓席」といい、日本一窓の多い茶室と言われています。
先日この茶室でお家元の茶会が行われました。
9月 25日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「大池寺(だいちじ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週ご紹介した水口にはもう一つ遠州公作
といわれている庭をもつ大池寺があります。
このお寺は天平年間行基の開山と伝えられ、
行基がこの地域の人のために溜め池を
造ったことから始まるといわれています。
後に臨済宗に改められます。
水口城築城に携わった遠州公が、
水口築城を祝して作庭したと言われ、
サツキの大刈り込みをした枯山水庭園です。
書院から見える庭は、宝船と七福神を表した大刈り込み、
大海の大波小波を表し、砂紋の白州は水面を、
宝船が大海原に浮かんでいる様を表現しているとされています。
サツキが咲き、緑とピンクの対比が美しい
5月下旬から6月中旬にかけてが見ごろですが、
夏は刈り込みの深緑、秋には背後の木々が紅葉し、
庭園の白、緑、赤の色が美しく映えます。
平成に入って茶室前に水琴窟がつくられました。
四季折々の美しさが400年近くもの間、伝えられ
保たれてきました。
7月 24日(金)遠州公所縁の地を巡って
「二条城二の丸庭園」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は二条城二の丸庭園について
ご紹介します。
寛永元年(1624年)遠州公46歳
後水尾天皇の二条城行幸という
幕府にとっての大変な重要行事に際し、
大改修が催されることになり、
その奉行に遠州公が任ぜられることになりました。
池を中心とした庭園は大広間の西、黒書院の南に位置し、
主として大広間から鑑賞されるものでしたが、
庭園の南に行幸御殿が設けられることになり、
遠州は大広間・書院・行幸所の
三方向から眺めて楽しむことのできる庭園
をつくります。
池に浮かぶ蓬莱島・亀島・鶴島の三島の配置もよくできており
三方向から見られることをよく計算されています。
アメリカの日本庭園専門雑誌
『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』
という雑誌では、毎年日本庭園のランキングを発表しています。
知名度ではなく、純粋にその美と質によって
評価しており、日本人独特の先入観が入りません。
この雑誌の中で二の丸庭園は11位に選ばれています。
ちなみに遠州公所縁の「頼久寺」は16位「桂離宮」は2位
にランクインしています。
7月 10日 (金) 納豆の日
ご機嫌よろしゅうございます。
7月10日は納豆の日とされています。
今日は納豆と茶の湯についてご紹介します。
納豆は鎌倉時代、動物性たんぱく質を
摂ることのできなかった禅宗の僧侶が、
精進料理として、取り入れたもの
といわれています。
江戸時代には納豆は早朝に行商が
売り歩きにきました。
庶民にも広く普及していたようです。
この頃まではまだ醤油も普及しておらず
納豆は調味料的な利用をされ、
汁にすることが多かったようです。
茶の湯に関して言えば
千利休最晩年の天正十八(1590)年から
十九年にかけての100回に及ぶ茶会記を記す
『利休百会記』の中で
天正十八年に7回、茶事の会席において
「納豆汁」を出した記録があります。
秀吉や細川幽斎などの武将にも振舞っています。
天正18年は利休が自刃する前年ですので、
利休の茶の湯も確立された頃
納豆はその精神に叶う食事として会席に利用した
のでしょうか。
6月 5日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「江戸城での茶会」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は江戸城で行われた茶会について
ご紹介します。
元和六年(1620)
江戸城で秀忠の茶会に諸事承る
将軍秀忠が行った茶会についての
遠州公の自筆記録が残っています。
年号が記されておらず、明確ではありませんが
遠州公四十三歳の頃には既に将軍秀忠の茶会に
たずさわっていたと考えられ、
織部が亡くなった翌年から元和四年(1618)
の間三十八歳から四十歳の間に
秀忠の将軍茶道指南役になったと思われます。
また元和九年(1623)から寛永九年(1632)の約十年
遠州公四十五歳から五十四歳の頃は
伏見奉行、大坂城や仙洞御所の作事奉行を
兼務し同時に、茶の湯においても
大御所となった秀忠・将軍となった家光の
双方の指南役として活躍し、多忙な日々を送っていた時期でした。
5月 29日(金)遠州公所縁の地を巡って
小室の領地へ
ご機嫌よろしゅうございます。
元和五年(1619)遠州公四十一歳の時
備中国から、近江国に転封となります。
この近江は遠州公の生まれ故郷であり、
浅井郡の小室の地が領地となります。
これから小堀家は七代宗友公まで、
代々小室藩主となります。
遠州公はこの小室の屋敷内に「転合庵」と「養保庵」
という茶屋を設けましたが、多忙な遠州公は
ここにはほとんど住まわず、二つの茶屋も
小室に帰国した際に楽しむために作られた
ようです。
二代宗慶公の時代に陣屋が建設されました。
小室藩の陣屋は、藩主が住まう館と、
それを囲むように家老や家臣団の屋敷が配置され、
藩の政治機構が整えられました。
二代目以降もほとんどこの小室の陣屋に藩主は
おらず、小室藩の実際の治世は家臣達が担っていました。
現在、かつて小室藩の陣屋が置かれていた付近には、
小室藩が祀ったとされる山王社(現日吉神社)や
稲荷社や弥勒堂などの祠堂、家老の和田宇仲の屋敷に
湧き出ていた泉から引かれているという宇仲池など
のみが残っています。
5月22日(金) 遠州公所縁の地を巡って
女御御殿
ご機嫌よろしゅうございます。
元和四年(1618)遠州公40歳の折
秀忠の末娘・和子の入内が決まり、遠州公は
その女御御殿の作事奉行となります。
この作事は、何人かの奉行の内の一人として
一部分を割り当てられたのではなく、
最も格式の高い常御殿や居住所などの重要部分を
担当しており、遠州公の作事の技量が高く評価
されての任命といえます。
元和六年(1620)に和子は入内し、
後水尾天皇の女御となります。
寛永四年(1627)には、幕府の政策に耐えかねた
後水尾天皇が三十二歳で譲位を決意、寛永六年には
譲位されます。
遠州公は天皇の譲位後の住まいとなる仙洞御所の作事と
天皇譲位後東福門院となった和子の女院御所も
奉行しています。
またこの御所は建物が寛永七年に完成した後も
庭は未完成で、この作庭に遠州公が任命され、
寛永十年から十三年まで三年を費やしました。
この時期遠州公は二条城の二の丸作事、水口城
伊庭の御茶屋など、毎月作事奉行を仰せつかり
四ヶ所も兼務するなど、多忙をきわめます
5月 8日 (金)遠州公所縁の地を巡って
京都三条の屋敷
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公の屋敷についてご紹介します。
遠州公三十七歳の折、弟の治左衛門正行が、
三十三歳で遠州公の京都の屋敷で亡くなっています。
この屋敷は詳しくはわかっていませんが、
以前藤堂高虎の所有であったものを
遠州公が最初の作事奉行になった
後陽成院の御所を造営する慶長11年頃に
遠州公に譲られたと言われています。
京都の三条に位置し、遠州公が居住するように
なってから徐々に改築が行われ
四畳半台目下座床の席が作られていたようです。
伏見の六地蔵からでは不便なことから、
岳父から贈られたのではないかと思われます。
これまでの研究では、「寛永初之日記」に記された
二十四回に渡る遠州公の茶会は
伏見奉行屋敷の披露茶会と位置付けられてきましたが、
深谷信子氏は、寛永三年の将軍二条城行幸の際に行われた
ものとし、二条城にほど近いこの三条の屋敷で
行われた茶会ではないかとしています。
この二条城ついてはまた後日ご紹介します。