12月18日(金)遠州公の墓
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公最晩年のご紹介をいたします。
正保四年(1647)六十九歳
二月の六日に伏見奉行屋敷で亡くなります。
この五日前の二月一日には、伏見の茶亭で
茶会を催したと伝えられており、
その命の尽きるまで、茶の湯の生涯でした。
遠州公の墓は
京都市北区の大徳寺孤篷庵、 東京の練馬区の広徳寺,
滋賀県浅井町の孤篷庵にあります。
京都のお墓は先祖が一人づつ個別のお墓に
祀られており
東京のお墓は宗中公以降の十代目以降は
同じお墓に、
近江孤篷庵は七代目までは別々に
祀られているとのことです。
10月 9日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「品川林中茶屋」
ご機嫌よろしゅうございます。
寛永十五年(1638)、家光が大徳寺百五十三世
澤庵宗彭のために東海寺を建立します。
この建物のうち、客殿と数寄屋、そして庭園の造営
を遠州公が手がけました。
その庭は後世江戸第一の庭と絶賛されるものとなりました。
この東海寺には遠州公にまつわるもうひとつの
エピソードがあります。
寛永二十年(1643)三月十四日、将軍家光が
東海寺に御成になりました。
池には丸い島が三つ浮かび、その内の一つの島には
丸石が置かれ、そこから小さい松が一尺ほど
出ていました。
この石に名をつけよとの家光の命。
澤庵が「天の羽衣」「無心草」とお答えしても
将軍の意にかないません。
そこで遠州公が「万年石」と一声あげました。
品川御殿にある杉の大木を、家光が「千年杉」と
名付けていたことを踏まえての名でした。
将軍は大変お喜びになり、自分の着ていた羽織を
遠州公に与えたといわれています。
遠州公が手がけた建物や庭
現在ではその姿を目にすることはできませんが、
遠州公が寺に寄贈した天目茶碗(9月16日にご紹介)
が今も寺宝として伝えられています。
9月 7日 (月) 重陽(ちょうよう)の文
ご機嫌よろしゅうございます。
9月9日は重陽の節句です。
この重陽の節句については昨年
ご紹介しましたが、陽の一番大きい数である
9が重なり、おめでたいとされ、宮中でも
観菊の宴などが行われていました。
宗家では着せ綿を作り、親しい方にお贈りしています。
今日は大徳寺の江月禅師が遠州公にあてて贈った
重陽の偈をご紹介します。
九日重陽 籬在東 南山々下 興無窮
枝々洗出 蒲城雨 白菊白而 紅菊紅
毎年重陽を迎え、庭前の東にある籬には
白い菊は白く、また紅菊は紅に
相変わることなく咲いている
という意味の偈で、重陽の日に庭先に
紅白の菊が変わらず咲いている
今年も無事にその菊を愛でることが
出来る喜びを祝い、長寿を願う気持ちが
伝わってきます。
1月 19日 (月) 一休さんと善哉(ぜんざい)
ご機嫌よろしゅうございます。
冬に温かい善哉(ぜんざい)をいただくと
体も温まり、幸せな気持ちになりますね。
この善哉、実はとんちで有名な一休さんが
関係しているのです。
京田辺市にある「酬恩庵」。
もともと臨済宗・南浦紹明が帰朝後
禅の道場をここに建てたお寺でしたが、
その後荒廃していたところ、一休禅師が再興し
南浦紹明の恩にむくいるという意味で
「酬恩庵」と命名しました。
禅師はここで後半の生涯を送り
八十一歳で大徳寺住職となっても、この寺から
大徳寺に通ったのだそうです。
こんな経緯からいつしか
「一休寺」と呼ばれるようになりました。
さてこの一休寺で、一月一日生まれの一休禅師に
ちなんで毎年一月に行われる行事があります。
一年間の誓いの言葉を奉納し、自分自身の目標を立てて
新たな一年を過ごそうというものです。
最後に、一椀祈祷奉納を行い、
善哉(ぜんざい)が振舞われます。
この善哉という呼び名、大徳寺の住職から
お餅の入った小豆汁をご馳走になった一休禅師が、
その美味しさに
〝善哉此汁(よきかな この汁)〟
と言われたことが始まりといわれています。
5月 18日遠州公の茶の湯
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州公が茶の湯を始めたころの
お話を。
十五歳頃に大徳寺春屋宗園禅師に参禅し、
修行を積みながら
古田織部のもとで茶の湯を本格的に学んで行きます。
遠州公が十八歳の時に
「洞水門(どうすいもん)」を考案しました。
これは現在水琴窟と呼ばれているものの原形と言われています。
茶室に入る前には手と口を
蹲(つくばい)で清めます。
当時の蹲は水はけが悪く、
何度か使用すると、周りに水が溜まってしまい
大変使いにくいものでした。
これを若干十八歳の遠州公が
この蹲の地下に瓶を仕込み、
水滴が瓶の中に落ちる時に、水はけをよくし、
美しい反響音がする仕組みを考案しました。
遠州公の茶の湯の師であった
古田織部も遠州公の才に大変驚いたと
言われています。
2月28日 利休命日
天正十九年(1591年)の今日2月28日
茶の湯の大成者
千利休が切腹し、この世を去りました。
秀吉の怒りを買い
切腹となった原因には諸説あります。
・わび・さびを重んじる利休に対して、
派手好みの秀吉と対立するようになった
・茶道具を高額に売り、利を上げていた
・秀吉が利休の娘を側室にと望んだことを断ったため
・大徳寺の山門に利休の木像を掲げた
等々
真相は今もなお大きな謎ですが
秀吉が、茶の湯を利用して
柔軟に諸大名を支配下とし、治安の統制を
はかるため登用した利休が
商人でありながら
大名以上に力を持つ存在となり
身分制度を確立していく段階において
不都合なものになっていったことも
大きな要因と考えられます。