11月 2日(月)口切の文
ご機嫌よろしゅうございます。
11月に入り、炉を開く季節になりました。
また茶壺の封を切る口切の季節でもあります。
古くは霜が降りてから、落葉樹の葉の色づき加減を
みるなどして炉を開くなど、その時々の四季の
変化に応じて茶の湯も行われていました。
古田織部も自邸の柏の木の葉が色づくころ
炉を開いたと言われています。
遠州公もまた同じく、自然の変化に応じて
いたようで、こんな文が残っています。
壺の口切めでたく存候
茶すぐれ申候 竹の花入出来候而
気相もよく候之由様可為本望
委曲久左衛門可申候 恐惶
九月二十五日 遠州花押
くれ竹のま垣の秋の色に香に
はやここちよしちよの白菊
9月25日付の文には、既に口切を済ませ、
お茶の具合もよく、また自作の花入も満足な
ものができたと喜んでいます。
9月には既に寒さが早くやってきたのでしょう。
先人の茶の湯は現在のそれとは異なり、
自然とともに流れ、変化に応じていく
ゆるやかで豊かな心が感じられます。
10月 17日 若き遠州公の話
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州公が茶の湯を始めたころの
お話を。
十五歳で大徳寺春屋宗園禅師に参行し、
修行を積みながら
古田織部のもとで茶の湯を本格的に学んで行きます。
遠州公が十八歳の時に
「洞水門(どうすいもん)」を考案しました。
これは現在水琴窟と呼ばれています。
茶室に入る前には手と口を
蹲(つくばい)で清めます。
当時の蹲は水はけが悪く、
何度か使用すると、周りに水が溜まってしまい
大変使いにくいものでした。
これを若干十八歳の遠州公が
この蹲の地下に瓶を仕込み、
水滴が瓶の中に落ちる時に、ポーンという
美しい反響音がする仕組みを考案し
水はけの問題も解消しました。
遠州公の茶の湯の師であった
古田織部も遠州公の才に大変驚いたと
言われています。
9月 26日 鷺(さぎ)の絵
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は鷺の絵のお話をいたします。
鷺の絵は、松屋三名物の一つです。
奈良の松屋は漆屋を称した塗り師の家で
その茶を村田珠光に学びました。
鷺の絵は、その侘びた珠光表具のすばらしさから、
利休が「数寄の極意」としたこともあって
名だたる茶人はこぞってこの絵を松屋に拝見にいきました。
遠州公の師、古田織部
は利休に「数寄の極意」をたずねたところ
利休は松屋の鷺の絵を挙げられ
翌日、織部は直ちに馬で奈良に向かい
その鷺の絵を拝見したというエピソードもあります。
遠州公の父、新介正次は当時松屋の茶会に赴いたり、
自宅の茶会に招くなど親交を深めていました。
遠州公は父に連れられて、文禄3年2月3日、16歳の時に
この絵を拝見しています。
残念ながら現在は焼失し、見ることはできません。
4月13日 遠州公の茶の湯はじめ
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は大河ドラマ「軍師官兵衛」の時代
当時の遠州公についてのお話しをさせていただきます。
文禄四年(1595)
秀長の後仕えた羽柴秀保が亡くなり、
大和大納言家はここに滅びます。
遠州公の父、新介正次は秀吉の直参となり
伏見に居を移します。
父に伴い移動したこの伏見での
古田織部との出会いが遠州公の人生を、
決定づけるものとなりました。
文禄二年(1593)
遠州公15歳
この頃に遠州公は古田織部に茶道を習いだしたとされています。
古田織部は利休亡き後、
茶の湯の第一人者として活躍していました。
14歳の時にはすでに
松屋の「鷺の絵」を茶会にて拝見していたことが
記録でわかっています。
この「鷺の絵」についてはまた後日お話したいと思います。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日は、その年の新茶がふるまわれる炉開きが近づいてきましたので、お抹茶のお話をひとつ。
現代では、各宗匠のお好みのお抹茶に、銘が付いていることは当たり前となっておりますが、その銘を最初に付けた人物が遠州であることをご存知でしょうか。
「初昔」
これがお抹茶の最初の銘となりました。
なぜ、初昔というのか。
それは、お抹茶の製法を、古田織部以前に戻したことから、と言われています。
では織部がどのような製法だったのか、といますと、彼は茶の葉を茹でていたのです。
現在もそうですが、織部以前は、茶を茹でないで、蒸していました。
それは、蒸せばお茶は白っぽくなりますが、香りがとても良くなるからです。
しかし織部は香りよりも、「色」を重視しました。
そのため、青々しい色の出る、「お茶を蒸す」という方法で、お抹茶を(正確に言えば「碾茶(てんちゃ)」)を製法したのです。
しかしさらに、遠州は織部の弟子でありましたが、この製法を昔に戻しました。
そのため、「最初の昔にもどした」ことから、「初昔」という名が生まれたと言われています。
ちなみに、「~の白」という名も、この「青茶」に対して「白茶」である、ということから付けられた名前です。
このようなことからも、今日でもこの遠州の創意が受け継がれていることを見ることができます。