12月 19日 千宗旦(せんのそうたん)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は利休の孫にあたる千宗旦について
ご紹介します。
遠州公の一歳年上、12日にご紹介した
宗和と共に、この時代を代表する茶人です。
父は千少庵、母は利休の娘亀と言われ、
天正六年(1578)に生まれます。
天正十九年祖父である利休の切腹、
父少庵は秀吉の許しがでるまで
蒲生氏郷に預けられます。
子供の頃の宗旦は大徳寺に預けられ、後に
遠州公も参禅する春屋宗園のもとで修行します。
遠州の「綺麗さび」、「姫宗和」の金森宗和
そして「むさし宗旦」と表現された宗旦の茶は
清貧・高潔を旨とした徹底した侘び茶でした。
祖父・父の生き様を目の当たりにしてきた宗旦は
決して士官することはありませんでした。
しかし、自分の子供達の行く末を案じ、
仙叟宗室の士官先を加賀百万石前田家とすべく
遠州公の弟・左馬之介に斡旋してもらったことが
わかる文章が今でも残っています。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日は加賀百万石を築いた前田利常公についてお話いたします。
≪人物エピソード4:前田利常≫
前田利常は遠州の14歳年下で、文禄2年(1593)11月25日に前田利家の四男として生まれた。
9歳で兄・利長の世嗣となり、徳川秀忠の二女珠姫を正室として迎えている。
そして兄が引退したため、13歳で家督を継ぎ、119万石を領した。
先日のメルマガでもお送りした通り、利常は茶の湯を大変好み、遠州とも懇意であった。
そのため遠州は道具の目利をしたり、墨蹟を表装したり様々な面で利常からの厚い信頼を得ていた。
また、利常の嫡男である光高も遠州に茶を習い、茶会にも参会している。
何よりも挙げておきたいのが、遠州、利常、千仙叟の関係である。
裏千家を興した仙叟は、千宗旦の四男として1622年に生まれた。
仙叟は加賀藩前田家に召し抱えられるのだが、その斡旋をした人物が、前田家の茶頭として仕えていた遠州の弟・佐馬助正春であった。
長いこと仕える先を探し続けていた仙叟であったが、31歳にしてようやく大藩に就職ができ、76歳の宗旦はそれを大変喜び、小堀佐馬助にも礼状を出したという。
これらのエピソードは『元伯宗旦文書』の中に記録され、裏千家創世と、また裏千家と遠州流とを繋ぐ重要な資料として今でも残っている。
本日10月12日は前田利常の命日である。
享年66であった。