3月 13日(金)遠州公所縁の地を巡って
「伏見での遠州公」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は伏見・六地蔵のご紹介をしました。
この六地蔵で、遠州公は洞水門を作って、
師・古田織部を驚かし、
19歳で藤堂高虎の養女と結婚。
慶長四年(1599)21歳の年には
初めての茶会を催します。
遠州公にとって、茶人として、また としての
スタートとなる地でした。
21歳の茶会では師・織部の茶の湯に倣った道具組で
奈良の商人を客として行われました。
また秀吉の死後、織部や金森出雲、堺衆ともに
吉野へ花見に。「利休亡魂」の額をかかげて野点を行い
織部の鼓で遠州公が曲舞を舞った記録があります。
また22歳の時に関ヶ原の戦いが起こり、
父、正次は家康に呼応し出陣し、戦功により
一万四千石に加増、備中国奉行となります。
その翌年23歳で二度目の茶会を行います。
初会には用いなかった禅語の掛物ですが、
二回目の茶会には「石渓心月(しっけいしんげつ)」
を掛けており、遠州公の茶の湯上達の度合いが
推察されます。
これ以降、遠州公が行った茶会の記録は
しばらくの間見当たらず、寛永まで時を待つことになります。
11月 30日 南坊録
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は黒田藩立花実山の編著といわれている
「南坊録」のお話しをしたいと思います。
月 日に立花 実山についてお話しをしました。
黒田忠之の江戸参勤の折、共をしていた実山が
利休の言葉を伝える伝書なるものを見せられ、
その後実山が書き写したとされる「南坊録」
以前は利休の教えを伝える第一の書とされていましたが、
記載年号の間違いや、南坊という禅僧の存在の確証がないこと
などから、実山の作った偽書との疑いがもたれていました。
書中あるエピソードのなかには、利休が実際に話したこともあると思われますが
利休没後100年に実山が、乱れた茶の湯の世界を
憂い、実山の思い描く利休像が投影されて
いるとも考えられます。
今後の研究が待たれるところです。
松岡正剛氏の千夜千冊にも「南坊録」について
詳しく書かれています。
よろしければこちらもご覧下さい。
10月 29日 武野紹鴎(たけのじょうおう)
ご機嫌よろしゅうございます。
侘び茶を提唱し、利休の師として知られる武野紹鷗
今日はその紹鷗の命日にあたります。
茶の湯の簡素化,草体化をさらにすすめたとされる紹鷗でしたが、武具を生業として
当時室町幕府の威光の衰えから武力衝突が多発した
時代を機に巨万の富を築いた富豪でした。
もとは若狭の守護大名武田氏の一族で,
父信久は諸国を流浪し、姓を武野に改めたとされます。
武田が野に下ったので「武野」というわけです。
三条西実隆に「詠歌大概序」を学び、連歌を得意とした
紹鴎は、茶掛けといえば墨跡か唐絵が主流であった当時
その歌意の真意を悟り、安倍仲麻呂の「天の原…」
の和歌を茶掛として初めて用いました。
六歳の息子を、娘婿の今井宗久に後見として託し、
54歳で亡くなりました。
(1502ー1555)
9月 26日 鷺(さぎ)の絵
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は鷺の絵のお話をいたします。
鷺の絵は、松屋三名物の一つです。
奈良の松屋は漆屋を称した塗り師の家で
その茶を村田珠光に学びました。
鷺の絵は、その侘びた珠光表具のすばらしさから、
利休が「数寄の極意」としたこともあって
名だたる茶人はこぞってこの絵を松屋に拝見にいきました。
遠州公の師、古田織部
は利休に「数寄の極意」をたずねたところ
利休は松屋の鷺の絵を挙げられ
翌日、織部は直ちに馬で奈良に向かい
その鷺の絵を拝見したというエピソードもあります。
遠州公の父、新介正次は当時松屋の茶会に赴いたり、
自宅の茶会に招くなど親交を深めていました。
遠州公は父に連れられて、文禄3年2月3日、16歳の時に
この絵を拝見しています。
残念ながら現在は焼失し、見ることはできません。
8月 29日 遠州公の白
ご機嫌よろしゅうございます。
8月8日に、遠州公が抹茶の製法を
「白茶」に戻したお話をいたしました。
そして織部の緑
これには茶人の好みが反映されています。
それぞれの茶人の好みをシンプルに色で表すとするなら
利休の「黒」
織部の「緑」
遠州の「白」
とお家元は表現しています。
全てを包有する、他の存在を許さない「黒」
己の感性を先鋭に表した「緑」
「黒」も「緑」をも受け入れることのできる「白」
利休、織部の茶は己の精神.主観性を追求するもの。
それに対して
遠州はその日のお客様に合わせて
その好み・趣向を考え、道具の取り合わせを自在に
変えるなど相手の心を映した茶でした。
オリンピック招致で話題となった
「おもてなし」の日本の心ですが、
茶の心、とりわけ
この遠州公の「白」の好みが生きているような気がいたします。
3月16日 官兵衛(遠州公郡山時代)
ご機嫌よろしゅうございます。
日曜日になりましたので
大河ドラマに関連したお話しを。
織田信長が光秀に打たれ、
官兵衛の一言に我に返った秀吉が
その後明智を破り、天下を握ることとなりました。
この本能寺の変の後
秀吉の関白就任、秀長転封と続き
これに伴い、遠州の父も郡山に移ったことは
以前お話しました。
この時遠州七歳。
これから十七歳までの約十年間を
この郡山で過ごします。
遠州が十歳の時、
初めて利休に会うことになります。
天正十六年(1588)
秀長が秀吉を招いた茶会が行われ
その秀吉へお茶を運ぶ役に選ばれます。
その茶の湯の利休を呼び寄せ
前日の秀長は直接指導を受け、幼少の作介(遠州)
もまた利休の言葉を
耳にしたのです。
天下人であっても茶の湯を通じて
対等に接することができる
それを目の当たりにした茶会となります。
この十歳の出会いは後の
遠州に大変大きな影響を与えたのでした。
2月13日 「雪の日には紅梅一輪」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は梅にちなんだお話をご紹介します。
遠州の「綺麗さび」と利休の「侘び」
この違いをよく表すエピソードがあります。
ある雪の日、利休がお茶室にお客様を招きますが
その席の床の間には
掛物も花も何も飾ってありませんでした。
利休は
「雪も花である。 雪の日に花は要らぬ」
と話しました。
一方、遠州は
「雪の日には紅梅一輪」
と言っています。
利休の求めるのは
自然の中に見出す厳しさも含んだ美しさ
それと対照的に
雪の路地を抜け、席中に入ってうつる紅梅の色に
ほっと温もりを感じてほしいという
遠州の美意識
それぞれの生きた時代が
その精神性に反映されて生まれた
美しさです。
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皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
遠州の交友はとにかく広い。
将軍や大名だけでなく、商人や医者などの町人たちとも交流があった。
そしてさらには公家、なかでも寛永のルネサンスのリーダーの一人、近衛信尋と懇意にしていた。
慶安2年10月11日は、近衛信尋の命日である。
信尋の父、信伊は寛永の三筆(他は本阿弥光悦・松花堂昭乗)の一人に数えられ、薩摩に流されたりと、波乱に富んだ一生を送っているが、豪放な書風で知られている。
その養子信尋は、実は後水尾天皇の弟であり、二人の兄弟愛は、天皇と大臣という間柄を越えて信頼し合っていた。
もちろん、能筆家としての名も高かった。
こんな書状が残っている。
当時の公家の若君たちは、平和な世に浮かれ、暴れていて、幕府はそんな若君たちを、いつでも取り締まってやる、と眼を光らせていた。
その時も、大宴会が開かれ、それが幕府の知るところとなった。
21歳の信尋は、これが知られては大変と青ざめ、藤堂高虎に弁解の手紙を送っている。
その中で、遠州が登場する。
宴会の最中には、遠州が様子を見に来て、心を配って頂いた、という内容である。
遠州は公家と武家の仲が円滑にいくべく、行動していたのではないだろうか。
その他の信尋の書状にも遠州は登場し、また、遠州の茶会記にも信尋は登場する。
信尋と遠州が利休について会話したことも、『桜山一有筆記』に記録されている。
それはまたいずれ。