11月 21日 一休宗純
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は頓知でおなじみの一休さんについての
お話しをしたいと思います。
ボサボサ頭に、ボーボーの髭
一休宗純は後小松天皇の御落胤とも言われていますが、
室町時代、風狂の精神の下で、形骸化した政治や仏教を
風刺するなど、形式にとらわれない行動と
人間らしい生き方が庶民の評判となります。
侘び茶の創始・村田珠光(じゅこう)も一休の門下になりました。
修行を行う中、「仏法も茶の湯のなかにあり」
という一休の教えを受け「茶禅一味」(茶も禅も同じ)
の悟りに達しました。
茶の湯だけではなく、花や連歌などをする多くの
文化人が一休の下に集い、その影響を受けたと
言われています。
一休が臨終の際に、弟子に
「これから先、どうしようもないくらい
困難なことが起きたら開けなさい。」
と、手紙を渡しました。
いよいよその時、弟子が手紙を開けると
中に書かれていた言葉は
「心配するな。大丈夫。 なんとかなる。」
だったとか。
文明十三年(1481)十一月二十一日の今日
八十八歳で亡くなります。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日は、「一休さん」という愛称で有名な一休宗純の命日です。
≪人物:一休宗純≫
侘び茶の祖・村田珠光の師とされ、また破格奔放で知られた一休は、茶人の間で大変尊敬されています。
現在、「一休寺」の愛称で知られている酬恩庵ですが、もとは南浦紹明が創建したあと荒廃したままであったのを、一休が宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩に報いるという意味で「酬恩庵」と命名しました。
一休は応永元年(1394)に生まれ、それまでの戒律に縛られない風狂な生き方で天皇や民衆から愛され、晩年を酬恩庵で過ごし、文明13年(1481) 88歳で没しました。
出自は後小松天皇の御落胤とされており、現在、酬恩庵に置かれる一休の墓は宮内庁の管轄となっているため一般の立ち入りは禁止されています。
遠州の茶会にも、一休の墨蹟は茶会で度々掛けられており、そこに尊敬の念が見て取れます。
そして、酬恩庵の境内に黙々寺を建立し、晩年を過ごしたのが、遠州の親友であった佐川田喜六でありました。
豪胆な武人として知られ、関ヶ原の戦のあとには、石田方でありながらも徳川家康の重臣・永井直勝に招かれ、家臣に加えられました。
遠州と同い年で、遠州に茶の湯を学んだ佐川田喜六は風流人としても知られており、共通の友人である松花堂昭乗と共に交流を深めました。
佐川田喜六は寛永20年(1643) 8月3日に、黙々寺で没します。
酬恩庵を起点にすることによって、様々な繋がりを見て取ることができます。