皆様ご機嫌よろしゅうございます。
今から37年前の10月、歌舞伎座でどんな演目が上演されていたかご存知でしょうか。
本日はそのことについてお話ししたいと思います。
≪これまでの行事1:歌舞伎『小堀遠州』≫
1976年10月、歌舞伎座では『小堀遠州』が上演された。
田中喜三作、戌井市郎演出、そして先代の紅心宗匠が監修をし、遠州、織部、細川忠興の三者を中心とし、史実を基にして物語が作られた。
主役の小堀遠州を演じた17代目の市村羽左衛門は、後に人間国宝となる名役者で、8代目坂東彦三郎の父親である。
物語は、遠州が起こした将軍の公金一万両流用事件を、ライバルであった細川忠興が、遠州との問答の末、遠州の茶の湯に対する心を認め、手を差し伸べて解決する、というものであった。
この演目は、その年の脚本の中で、「芸術的純正度のみに偏らない、特に娯楽性に富んだ」脚本に対して与えられる『大谷次郎賞』を受賞した。
現在でも『大谷次郎賞』の解説があるHPのページには、はっきりとその写真の中に『小堀遠州』の脚本表紙が見て取れる。
また月刊『遠州』の昭和53年7月号~10月まで、この演目の脚本が写真入りで連載されているので、もしご一読されたい方は大有にてお求め頂きたい。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日は旧暦で9月9日、『重陽の節句』です。
なので本日は菊についてお話いたします。
≪花:菊≫
重陽の節句で見られる着せ綿。
菊の花に染料で染めた真綿を着せたものであり、宗家道場でも先月生けられていた。
平安時代の貴族より習慣があり、菊の露が染み込んだ真綿で体を拭うと、無病長寿となるとされていた。
菊は古くから日本人の習慣や、景色の中に深く溶け込み、江戸時代になるとさらに多くの品種が改良され、品評会なども多く行われた。
ちなみに世界には2万種ほどの菊があり、その点を見ても、いかに人間が菊を好んでいるかがわかる。
また食べ物としても知られ、和え物や天ぷら、団子など様々な調理方法がある。
現在でも国会議員の議員記章や、パスポートなどに菊が用いられ、最も身近なところでいえば50円玉であろう。
本日は菊の節句、重陽。
ふと気づくと、道端に野菊が意外と咲いている。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日は加賀百万石を築いた前田利常公についてお話いたします。
≪人物エピソード4:前田利常≫
前田利常は遠州の14歳年下で、文禄2年(1593)11月25日に前田利家の四男として生まれた。
9歳で兄・利長の世嗣となり、徳川秀忠の二女珠姫を正室として迎えている。
そして兄が引退したため、13歳で家督を継ぎ、119万石を領した。
先日のメルマガでもお送りした通り、利常は茶の湯を大変好み、遠州とも懇意であった。
そのため遠州は道具の目利をしたり、墨蹟を表装したり様々な面で利常からの厚い信頼を得ていた。
また、利常の嫡男である光高も遠州に茶を習い、茶会にも参会している。
何よりも挙げておきたいのが、遠州、利常、千仙叟の関係である。
裏千家を興した仙叟は、千宗旦の四男として1622年に生まれた。
仙叟は加賀藩前田家に召し抱えられるのだが、その斡旋をした人物が、前田家の茶頭として仕えていた遠州の弟・佐馬助正春であった。
長いこと仕える先を探し続けていた仙叟であったが、31歳にしてようやく大藩に就職ができ、76歳の宗旦はそれを大変喜び、小堀佐馬助にも礼状を出したという。
これらのエピソードは『元伯宗旦文書』の中に記録され、裏千家創世と、また裏千家と遠州流とを繋ぐ重要な資料として今でも残っている。
本日10月12日は前田利常の命日である。
享年66であった。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
遠州の交友はとにかく広い。
将軍や大名だけでなく、商人や医者などの町人たちとも交流があった。
そしてさらには公家、なかでも寛永のルネサンスのリーダーの一人、近衛信尋と懇意にしていた。
慶安2年10月11日は、近衛信尋の命日である。
信尋の父、信伊は寛永の三筆(他は本阿弥光悦・松花堂昭乗)の一人に数えられ、薩摩に流されたりと、波乱に富んだ一生を送っているが、豪放な書風で知られている。
その養子信尋は、実は後水尾天皇の弟であり、二人の兄弟愛は、天皇と大臣という間柄を越えて信頼し合っていた。
もちろん、能筆家としての名も高かった。
こんな書状が残っている。
当時の公家の若君たちは、平和な世に浮かれ、暴れていて、幕府はそんな若君たちを、いつでも取り締まってやる、と眼を光らせていた。
その時も、大宴会が開かれ、それが幕府の知るところとなった。
21歳の信尋は、これが知られては大変と青ざめ、藤堂高虎に弁解の手紙を送っている。
その中で、遠州が登場する。
宴会の最中には、遠州が様子を見に来て、心を配って頂いた、という内容である。
遠州は公家と武家の仲が円滑にいくべく、行動していたのではないだろうか。
その他の信尋の書状にも遠州は登場し、また、遠州の茶会記にも信尋は登場する。
信尋と遠州が利休について会話したことも、『桜山一有筆記』に記録されている。
それはまたいずれ。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
「十団子」を知っているだろうか。
静岡県の打津の峠にさしかかったところの名物として当時知られていた団子である。
その団子がなぜ十団子かというと、容器から杓で掬うとき、必ず一度に十個ずつになるからだという。
早速その技を見せるように命じた遠州は、店主の女房が自在に団子を掬う様を見物し、時間を忘れて楽しんだという。
その後、十団子は小豆粒ほどの固い小さな団子を数珠のように連ねた新たな十団子が登場し、こちらの方が有名になります。
遠州が見た技はもはや現代では見ることは叶いませんが、今でも近辺は江戸時代を感じさせる住まいが残っています。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
今から34年前の月刊『遠州 10月号』の、先代紅心宗匠が『数寄者とは』、と題して、前田利常公と、小堀遠州の茶の湯問答のことについて書いています。
本日は「数寄者」について、少しひも解いてみたいと思います。
茶湯問答の書状は利常公が「茶湯根本は何と仕たる所を数寄者と申候哉」と、遠州に御尋ねしているとこから始まります。
それに対し、紅心宗匠は遠州が
「目に見、耳に聞き、事にあたる時、自我が実態として存在すると考えて、それにとらわれ、自己主張に溺れる人が多い。全てを知り、全てを忘れてしまい、それらの執着心を捨て去る事が出来たならば、真の数寄者という事ができるのであろう」
と答えている、と意訳しています。
そして後日、遠州は前田邸へ単身出向き、「放下着(ほうげじゃく)」の話を交えながら、茶湯根本について話をしました。
この「放下着」とは、何もかもを脱ぎ去った境地のことを言います。
この「着」は「~せよ」の命令形の助辞で、「放下せよ、全てを捨てよ」という意味であり、これこそが茶湯の根本のひとつであると遠州は利常公に返事をしたのです。
紅心宗匠は最後に、「真の数寄者となる事は誠に困難な事であるが、日々の修練に依り、一歩でも遠州の心に近づきたいものである」と記して、筆を置いている。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます
昨日は全国各地で最高気温を記録するほどの暑さとなりました。
本日も東京は28度まで上がる予報ですので、体調にはくれぐれもお気をつけ下さい。
そんな気温の中、24節季では、本日より「晩秋」「寒露」となります。
本来であれば露が凍るほどの寒さとなったことを指しますが、しばらくはまだまだ暑さが続きそうです。
72侯では「鴻雁来(こうがんきたる)」。
日本人は雁が飛来してくる光景を「初雁」と呼んで、色々な詩歌に詠み込んできました。
どこからやってくるのかと言うと、シベリアからやってきます。
生まれてから2か月ほどのヒナも、4000キロを飛び続けるのです。
過酷な旅を続けた雁たちは、北海道の宮島沼で休憩し、宮城県あたりで越冬します。
そして春になると、成長した子供たちを連れて、再びシベリアへと帰っていくのです。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日は、その年の新茶がふるまわれる炉開きが近づいてきましたので、お抹茶のお話をひとつ。
現代では、各宗匠のお好みのお抹茶に、銘が付いていることは当たり前となっておりますが、その銘を最初に付けた人物が遠州であることをご存知でしょうか。
「初昔」
これがお抹茶の最初の銘となりました。
なぜ、初昔というのか。
それは、お抹茶の製法を、古田織部以前に戻したことから、と言われています。
では織部がどのような製法だったのか、といますと、彼は茶の葉を茹でていたのです。
現在もそうですが、織部以前は、茶を茹でないで、蒸していました。
それは、蒸せばお茶は白っぽくなりますが、香りがとても良くなるからです。
しかし織部は香りよりも、「色」を重視しました。
そのため、青々しい色の出る、「お茶を蒸す」という方法で、お抹茶を(正確に言えば「碾茶(てんちゃ)」)を製法したのです。
しかしさらに、遠州は織部の弟子でありましたが、この製法を昔に戻しました。
そのため、「最初の昔にもどした」ことから、「初昔」という名が生まれたと言われています。
ちなみに、「~の白」という名も、この「青茶」に対して「白茶」である、ということから付けられた名前です。
このようなことからも、今日でもこの遠州の創意が受け継がれていることを見ることができます。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日10月5日は達磨忌です。
達磨忌とは、達磨大師を偲ぶ日であります。
さらに遠州流にとってはもう一人、重要な人物の死を悼む日でもあります。
寛永7年10月5日は藤堂高虎の命日です。
藤堂高虎は、遠州の正室の父、つまり義理の父親です。
ただ、それよりも前、遠州の父・新介正次の頃から関係は深くありました。
正次も、高虎も似たような生涯を送っており、特にターニングポイントが重なっていることは、二人を結びつける重要な出来事でした。
もとは、両者とも磯野員昌に仕えており、その後、豊臣秀長の家臣となります。
秀長が没すると、嗣子秀保に仕え、秀保も没すると秀吉に仕えます。
そして秀吉が亡くなると、今度は家康の下へ。
関ヶ原の戦後、その活躍により、新介正次は備中国松山城を預かり、高虎は伊予国今治城主を預かり、大名となりました。
高虎は武将としての名も高く、慶長の役では朝鮮水軍を破る武勲も持ちます。
また、秀保が没した際に、一度出家し、高野山に入りましたが、秀吉の招きにより、還俗した過去もあります(ちなみに正次は二度還俗)。
高虎も正次も、次なる世には茶の湯が重要な位置を占めることを感知していました。
それは織部との交遊や、松屋会記、特に高虎は『藤堂伊賀』という独自の陶器を作成するなど、様々な面から見て取れます。
また、小堀遠州という人物がこの世に誕生したことは、この二人の戦国時代を走り抜けた鋭い先見の眼が無ければ成しえなかったことです。
晩年は失明したようですが、生涯茶の湯を愛好し、自会を催したり、家康・秀忠の茶会に参会したりしました。
また、徳川幕府と公家の仲を取り持った人物でもあり、寛永2年9月22日の遠州の茶会には、近衛応山、藤堂高虎、三宅亡羊の三者が揃っており、茶の湯により、心を通い合わせていたようです。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
元和7年9月22日に江戸を出発した遠州一行は、10月4日にようやく京都に到着しました。
なので本日はこの旅を記した『東海道旅日記 上り』についてお話します。
旅の行程は12泊13日、500キロ。
1日の行程が約9里半(38キロ)、1里1時間と考えて、1日に9時間半ほど歩き続ける、と
いうことで、現代人にとってはかなりの強行軍のように感じられます。
しかし、その旅程を遠州自身が記した『東海道旅日記 上り』には、道中に難所がいくつか登場しますが、様々な人の手を借りて解決し、さらに和歌あり、詩ありと、とても楽しそうに日記は綴られています。
当時の遠州の人間関係を知るうえでとても貴重な資料なのです。
この日記の書かれた元和7年、43歳の遠州は城主のいなくなった丹波福知山の政務沙汰をする他は特別なことはなく、晴れやかな気持ちで旅ができたのではないでしょうか。
その後、この旅日記は、各大名からの書院飾りの一巻としても所望もあったようで、遠州の嫡子大膳宗慶、次男権十郎篷雪、三男十左衛門政貴などそれぞれが、書写しました。