遠州公の愛した茶入「下面(しためん)」

2014-5-17 UP

5月17日 遠州公の愛した茶入「下面(しためん)」

ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州蔵帳所載の茶入「下面」を
ご紹介します。

昨日遠州好みの面取についてお話ししました。
この茶入はその好みがもっともよく表れたもので
その形状から遠州公が命銘したと思われます。
書籍等でご覧になったことのある方も多いかと思います。

高取焼きは遠州公指導の窯の一つで
遠州高取とも呼ばれます。

この茶入は、その遠州高取の絶頂期である
白旗山窯(寛永七年・1630)
のときに作られたものとされています。

遠州公の茶会記に高取焼茶入が初めて登場するのが
寛永五年(1628)4月23日で、同じ年に6回
寛永十年(1633)に1回、寛永十九年(1642)に2回
合わせて約九回使用したことが確認できます。

このうちこの下面が使用されたと考えられるのは
寛永十年以降と思われます。

遠州公以来小堀家歴代に伝わる茶入です。

遠州好み 「面取(めんとり)」

2014-5-16 UP

茶入れ

5月 16日  遠州好み 「面取(めんとり)」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公の好んだ形を一つご紹介します。

遠州公の代表的な好みの一つが「面取(めんとり」です。
きっぱりと面を取ったシャープなラインが特徴で
今の時代にみてもモダンにうつります

この特徴は特に茶入と茶碗に多いものです。
茶入には高取「下面」があります。
寛永の始め頃、九州高取の白旗山に窯を築かせ
そこでできたものです。
茶碗で有名なものには
三井文庫蔵の遠州書付「面」があります。

もともとこの面取りという意匠は瀬戸の茶入
真中古窯(瀬戸の茶入の分類名)にあるもので
遠州公の好みとするものとして、中興名物にも選ばれています。

他に薩摩焼やオランダで焼かれた茶碗にも下面の
意匠を用いています。
また茶碗茶入以外にも
釜や薄茶器、水指などに面取が見られます。

明日は遠州蔵帳所載の「下面」をご紹介します。

村田珠光

2014-5-15 UP

5月15日 村田珠光(むらたしゅこう)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日5月15日は村田珠光の命日です。

珠光は応永三十年(1423)に生まれ、文亀二年(1502)の
5月15日に亡くなったといわれています。

少年のころ奈良の称名寺に入り出家
その後30歳の頃に大徳寺の一休和尚に参禅します。

月も雲間のなきは嫌にて候
藁屋に名馬繋ぎたるがよし
など
「冷え枯るる」精神を茶の湯に吹き込み
侘び茶の創始ともいわれています。

それまでは部屋に茶道具を飾り、別の部屋でお茶を点てて
運んでいた茶室が、珠光によって
主客同座となり、床の間に墨跡を掛け、
禅の精神で茶を喫する場に変わっていきます。

珠光という号は剃髪し僧となってからの号なので
俗名である村田と並べて呼ぶのは本来おかしいのですが
現在では、村田珠光と呼ぶのが通例となっています。

卯の花腐し(うのはなくたし)

2014-5-14 UP

5月 14日  卯の花腐し(うのはなくたし)

旧暦四月の異名は卯月といいますが
卯は卯の花(うつぎ)のことで
その頃降り続く長雨のことを
「卯の花腐し」といいます。
卯の花を腐らせるような雨という意味からついた名称です。
適度な湿気は花の美しさを引き立てますが
しばらく雨が続くとクタクタになってしまいます。

和歌では万葉集からこの言葉が見られ、
それほど多くはありませんが近世まで
詠まれ続けました。

卯の花を 腐す霖雨(ながめ)の始水(みづはな)に
寄る木屑(こつみ)なす 寄らむ児もがも
『万葉集』(霖雨の晴るる日作る歌一首) 大伴家持

卯(う)の花を腐らせる長雨の流れる水に寄ってくる木屑(きくず)のように、
(私に)寄り付いてくれる娘さんがいたらいいのに。

いとどしく 賤しづの庵の いぶせきに
卯の花くたし 五月雨ぞする
『千載集』(五月雨の歌とてよめる) 藤原基俊

ただでさえ卑しい身分の我が家は鬱陶しいというのに
この季節は卯の花を腐らして五月雨が降りつづき
いっそう気分がふさいでしまうことよ。

五月下旬は天気の悪い日が多く、
曇り空は卯の花曇り、卯月ぐもりともいいます。

竹酔日(ちくすいび)

2014-5-13 UP

5月13日 竹酔日(ちくすいび)

降らずとも 竹植うる日は 蓑と笠
松尾芭蕉

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は「竹酔日」と呼ばれる日で
先述の俳句はこの「竹酔日」を詠んだ句です。

蓑笠を着た姿は、竹を植えるのに相応しいので、
雨が降らなくても竹を植える日には
蓑と笠を着て植えたいものだ
というような意味です。

この日は移植が難しい竹の植え替え日といわれています。
中国の古書に
「この日は竹が酒に酔っていて移植されたことに
気づかないから」と記されていたことに由来するようですが
根拠は不明です。
もしこの日に竹を植えられなくても、
「5月13日」と書かれた紙を竹に貼るだけで
同様の効果が得られると言われています。

また、この日はかぐや姫が月に戻った日とする説もあります。

旧暦5月13日は現在の6月23日頃にあたり
奈良の大安寺では、毎年6月23日に「竹供養」が行われます。

卯の花墻

2014-5-12 UP

5月12日  卯の花墻

ご機嫌よろしゅうございます。
爽やかな初夏に白い卯の花が美しく咲き
新緑にうつるその白さは、私たちの目に眩しく映ります。
卯の花は空木(うつぎ)の別名です。

今日はそんな卯の花を銘にもつ
茶碗をご紹介します。

日本で焼かれた茶碗で国宝に指定されているのは、
二碗のみで、そのうちの一つがこの「卯の花墻」です。
(もう一碗は本阿弥光悦作・銘「不二山」

室町三井家から寄贈され、現在東京の三井記念美術館に
所蔵されています。
16世紀後半、桃山時代に作られた志野茶碗です。

志野とは、美濃(現在の岐阜県)の窯で焼かれ
桃山時代を代表する窯場のひとつで、
織部焼もここで作られています。

少し歪んだなりをしていて、篦削りも大胆なこの茶碗は
織部好みに通じる作行きです。

夏に白い花を咲かせる卯の花の垣根に
似ていることからこの銘がつけられました。
遠州公の後、徳川将軍の茶道師範となった
片桐石州による銘とされています。

母の日

2014-5-11 UP

5月11日  母の日

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は日曜日、官兵衛の時代…のお話はお休みして
母の日についてご紹介します。

アメリカでは南北戦争がおこった時代
様々な女性が社会活動を行っていました。
そのうちの一人、アン・ジャービスは南北戦争中に
「母の仕事の日」と称して社会的弱者を助け、
敵味方問わず負傷兵の治療活動を行うなどの
活動をしていました。

彼女の娘が
ジャービスの死後2年経った1907年5月12日、
亡き母親を偲び、白いカーネーションを墓前に供えます。
これが日本やアメリカでの母の日の起源とされています。

後1914年に「母の日」はアメリカの記念日になり、
5月の第2日曜日と定められました。

普段改まって伝えられない感謝の気持ち
今日は是非お母様に伝えてください。

遠州公の愛した茶入 「春山蛙声(しゅんざんあせい)」

2014-5-10 UP

5月 10日 遠州公の愛した茶入
「春山蛙声(しゅんざんあせい)」

ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州蔵帳所載の茶入「春山蛙声」を御紹介します。

この茶入の銘は遠州公によるもので、茶入の窯分けでは
柳藤四郎に分類されていますが
その名称の由来についてはよくわかっていません。

遠州公の茶会記に登場するのは
寛永十八年(1641)4月9日の朝に
狩野探幽法眼達を招いた茶会一回のみです。

時期的にいえばちょうど今頃に
使われたということになります。

銘だけから想像するに
爽やかな季節、蛙の鳴き声がきこえてくる
とてものどかな風景が連想できます。

遠州公所持の後は、小堀家を離れ、
のちに益田鈍翁の所有となり、
現在は、大阪の湯木美術館の収蔵品となっています。

遠州流のお点法

2014-5-9 UP

5月 9日 遠州流のお点法

ご機嫌よろしゅうございます。
遠州流のお点法は
流祖遠州公の時代から
形を大きく変えることなく現在まで至っています。
門人の方が日々お稽古されているお点法は
その昔、「綺麗」と評判だった遠州公の形なのです。
そう思うと一つ一つ所作の意味にも一層深さを感じます。

さて、遠州流では通常
濃茶の点法には棗を使用しません。
織田信長が茶の湯を政治に利用し、
小壺狩をしたことは、 以前にお話ししました。

この召し上げによって
一般の間で茶入を持つことが難しくなり
一握りの者しか所有できない、大変貴重な道具となりました。

そこで千利休が、その侘びの精神性をもってして
棗でも
濃茶の手前に使うことができるよう考案したのです。
その、真塗りの棗を用い、蓋裏に朱で利休の花押が書き入れてあります。

遠州流は流祖が大名だったこともあり
茶入は所持していたため
この棗濃茶というお点法がないのです。

薫風自南来

2014-5-8 UP

5月8日 薫風自南来

ご機嫌よろしゅうございます。
爽やかな初夏の風が心地よく感じられるこの季節
新緑の間を吹き抜け、若々しい緑の香りをもたらしてくれる
という意味の薫風(くんぷう)という言葉がぴったりです。

この時期よく掛けられる禅語に

薫風自南来

という言葉があります。

南から吹いてくる爽やかな風が、全てのものの
心を爽やかにしてくれる、そんな様子を表しています。
また、この風を、インドから中国へ仏教を伝えた達磨大師
ととらえる読み方もあるようです。

この語は唐の文宗皇帝が、
人は皆炎熱に苦しむ
我は夏日の長き事を愛す
と作った詩をうけて、柳公権という詩人が、
続けて一篇の詩としたものです。
薫風自南来
殿閣微涼を生ず

世の人々は夏の暑さを嫌がるが、
私はその夏が長いことを好んでいる。
暑い中、時折吹く薫風によって宮中が清々しくなる
のはとても心地よく、こんな気分は、夏でないと味わえない
といった意味です。

その後この詩を庶民の苦しい暮らしを知らないが故のもの
として批判する人物も現れたようですが、
この言葉が禅語として重用されるのは

薫風自南来という、自然の情景を示すこの言葉を聞き、
大慧禅師が大悟したといわれるため
なのだそうです。