5月 27日 目に青葉 山ほととぎす 初鰹(はつがつお)
目に青葉
山ほととぎす
初鰹
ご機嫌よろしゅうございます。
江戸時代の俳人・山口素堂の
季節感をよく表した句ですが
正しくは「目には青葉…」なのだそうです。
初夏はのぼり鰹(かつお)のシーズン。
南の暖かい海で冬を過ごした鰹が、4~5月にかけて
黒潮に乗り太平洋沿岸を北上します。
「女房を質に入れても」といわれた初鰹ですが
鎌倉で水揚げされた「相州の初鰹」は特に珍重され、
江戸まで早舟で届けたといわれます。
文化九年(1812)には魚河岸に入った17本の鰹のうち、
6本が将軍家へ献上されました。
そして残りを高級料理屋の八百膳と魚屋が
そのうち一本を三代目中村歌右衛門が3両で買い
大部屋の役者に振舞ったという記録が残っており、
こぞって法外な高値で取引される
初鰹は庶民の話題の的となりました。
1両が現在の30万円ぐらい
これは当時の最下級の武士の一年分ほどの給料に
相当するようです。
5月26日 松浦鎮信(まつうらしげのぶ(ちんしん))
ご機嫌よろしゅうございます。
今日5月26日は松浦鎮信の命日です。
元和八年(1622)ー元禄十六年(1703)
肥前平戸藩主で、ちょうどこの頃に島原の乱(島原一揆)
が起こります。そのため、鎮信は長崎奉行所を守備、
また異国船の入港が長崎に限られ、その警戒にあたります。
茶は片桐石州の家老・藤林宗源に学び、
石州流鎮信(ちんしん)派を開きました。
屋敷は品川にあり、
赤穂浪士の討ち入りで有名な吉良上野介のお隣さんだったといわれ
提灯を掲げて討ち入りを助けたという話も残っています。
また鎮信の茶杓に「討ち入り」という銘のものもあります
遠州公はこの鎮信の祖父に当たる同名の鎮信と親交があり
その屋敷の庭は遠州作とも伝わり、
今も中学校の校庭に、その庭が少しだけ残っています。
5月25日 秀吉の初茶会
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は日曜日
官兵衛の時代のお話を。
官兵衛が有岡城に幽閉されてしまいました。
官兵衛最大の苦難の時です。
この少し前、
三木城の北東の平井山の本陣に入り
三木城の監視に当たっていた秀吉は
天正六年の10月15日に、
堺の津田宗及らを招いて茶会を開きます。
これが秀吉が信長に公許された
最初の茶会のようです。
この時、信長から拝領した乙御前の釜や
月の絵の掛物を使っています。
会席には生の白鳥の汁と飯。
播州の内池に下りてきた白鳥をつかまえたもので、
生きた白鳥を〆て汁に供するのは、
格式の高い料理です。
歴史に詳しい方いらっしゃいましたら
是非このあたりのお話でコメントただけましたら幸いです.
5月 24日 遠州公の愛した茶入
「玉柏(たまがしわ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州蔵帳所載の茶入
「玉柏(たまかしわ)」を
ご紹介します。
「玉柏」は
奈良屋弥兵衛が、摂津国の難波の浦で
見出したことから、遠州公が千載和歌集の恋歌
ちなんで命銘されました。
難波江の藻にうづもるる玉柏
あらわれてだに人をこはばや
難波江の藻に埋もれている石が水面にあらわれるように、
せめて思いをあらわして人を恋いたいなあ。
玉がしわは玉堅磐、海中の岩のことで
井伊直弼の『閑窓茶話』には「玉柏といふ茶入は、
黒きなだれの薬どまりに大なる石はぜあり、
因て遠州玉柏と名づけらる、玉柏は石の異名なり」とあります。
遠州公の茶会では
寛永十九年(1642)を最初に三回ほど使用されています
5月23日 遠州公時代の三河の名所
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は伊勢物語に出てきた三河の八つ橋について
遠州公が歌った和歌をご紹介します。
遠州公が元和七年(1622)43歳のときに
江戸から京都へ上った際の日記があります。
八つ橋というところに着いた。
燕子花の名所ということなので
さぞかしたくさん咲いているのだろうと思って
いたけれども、全く咲いていなかった。
やつはしに はるばるときてみかはなる
花には事をかきつばたかな
と言ったらお供のものが大変おもしろがった
とかかれています。
「花に事欠く」と「かきつばた」をかけたのですね。
平安時代、燕子花の名所であった三河は
遠州公の時代には名所がどこであったか
その場所もわからなくなっていたようです。
5月 22日 江戸っ子
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は江戸っ子についてお話をしたいと思います。
江戸に生まれ、江戸に暮らす
喧嘩っ早く、涙もろい、粋でいなせな性格
そんな人を江戸っ子と呼びました。
江戸っ子は五月の鯉の吹き流し
五月に空を泳ぐ鯉のぼり
そのお腹には初夏の爽やかな風が吹き抜けていきます。
口先ばかり 腸(はらわた)はなし
と続くこの言葉は
江戸っ子の気質を表す句として知られています。
江戸っ子は言葉づかいは荒いが,
腹に何もなく気持ちはさっぱりしているということ。
また,江戸っ子は口先ばかりで内容がない
という意味にも使われるそうです。
小説では夏目漱石の「坊ちゃん」
映画では「男はついらいよ」「一心太郎」などが
江戸っ子の主人公として描かれています。
5月21日 小満(しょうまん)
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は24節気の小満にあたります。
立夏ら数えて15日目頃をさし、
この時期を麦秋ともいうように
秋に蒔いた麦の穂がつく頃です。
農耕を生業とした時代には、作物の収穫は生命線です。
今年も順調でよかった。
と満足したことから小満と言う名前が付いたとか
万物が次第に長じて天地に満ち始めることから
小満と言われる
など諸説あるようです。
また、はしり梅雨と言われる雨が降り始めます。
これは本格的な梅雨に入る前の、ぐずつく天候のことで
この後晴れた日が続き、その後本格的な梅雨に入ります。
「梅雨の走り」ともいいます。
5月20日 あやめとかきつばた
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「燕子花」の花のお話を。
いづれあやめかかきつばた
物の区別がつかないことの例えとして用いられる
言葉の通り、一見すると
「あやめ」と「かきつばた」の見分けは難しいですね。
葉の形で言えば
葉の幅がやや広いのが「かきつばた」
花を見れば
花の中側に黄色と紫の虎斑模様があるのが「あやめ」
で「かきつばた」にはそれがなく、黄色だけ
というところで見分けがつきます。
宗実御家元は五月になると好んで用いています。
映画「父は家元」の花を入れるシーンは記憶に新しいところです。
5月19日 燕子花(かきつばた)
ご機嫌よろしゅうございます。
初夏に咲く花といえば
燕子花が思い浮かびます。
そしてかきつばたといえば
この和歌が浮かぶのではないでしょうか?
からころも
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞおもふ
歌の頭に
「かきつばた」と詠みこまれたこの和歌は
伊勢物語「東下り」の有名な和歌です。
失意の主人公が、東国で再出発しようと思い立ち
数人の連れと京から離れ、はるばる旅を続けます。
途中三河の八つ橋というところに行きつき、
かきつばたが大変美しく咲いていました。
着慣れた唐衣のように慣れ親しんだ妻が
(京には)いるにもかかわらず、
はるばる旅をしてきたことよ
と詠むと、皆さめざめと泣き
その涙でもっていた干飯(かれいい・携帯用のご飯)
がふやけてしまったよというおちもあり、
泣かせながら、ほんの少し笑わせます。
この物語は後に人々に広く受け入れられ
尾形光琳の燕子花図屏風など様々な絵画のモチーフとして
好んで使われました。
5月 18日遠州公の茶の湯
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州公が茶の湯を始めたころの
お話を。
十五歳頃に大徳寺春屋宗園禅師に参禅し、
修行を積みながら
古田織部のもとで茶の湯を本格的に学んで行きます。
遠州公が十八歳の時に
「洞水門(どうすいもん)」を考案しました。
これは現在水琴窟と呼ばれているものの原形と言われています。
茶室に入る前には手と口を
蹲(つくばい)で清めます。
当時の蹲は水はけが悪く、
何度か使用すると、周りに水が溜まってしまい
大変使いにくいものでした。
これを若干十八歳の遠州公が
この蹲の地下に瓶を仕込み、
水滴が瓶の中に落ちる時に、水はけをよくし、
美しい反響音がする仕組みを考案しました。
遠州公の茶の湯の師であった
古田織部も遠州公の才に大変驚いたと
言われています。