6月16日 和菓子の日
ごきげんよろしゅうございます。
今日6月16日は「和菓子の日」です。
848年(承和15年・嘉祥元年)の夏
豊後の国(大分県)が献上した白い亀を吉兆として
元号を「嘉祥」と改めます。この改元を祝い、
仁明天皇が6月16日に16の数にちなんだ菓子や
餅などを神前に供え、疫病除けや健康招福を
祈願した故事から、昭和五十四年(1979)に
全国和菓子協会によって制定された記念日です。
この慣わしが、様々に形を変え、
健康招福を願う行事が明治時代まで盛んに行われてきました。
江戸時代には嘉祥は重要な儀式と位置付けられ、
江戸城の大広間に約2万個の菓子が並べられ、
将軍自ら大名などに手渡すという儀式があったそうです。
しかし将軍が手ずから菓子を与えるのは最初だけで、
以後は途中で奥へ退出してしまい、大名・旗本は自ら菓子を
とっていきました。
2代将軍秀忠までは、将軍自ら菓子を与えたので
数日肩が痛かったとか。(「虎屋文庫」)
6月 15日 父の日
ご機嫌よろしゅうございます。
父の日を提唱したのは、アメリカのジョンブルース・ドット夫人。
彼女の父は南北戦争で軍人として働き、復員してまもなく過労により妻を亡くし
その後は男手一つで6人の子供を育て上げます。
母の日同様、父の日もあるべきとして夫人が『牧師協会』へ嘆願し
その後1916年に『父の日』が認知されるようになりました。
アメリカで正式に祝日となったのは1972年
日本では1950年ころに広がり始め、
1980年頃には定着していきました。
『父親を尊敬し、称え祝う日』が「父の日」です。
近年日本では日本ファーザーズ・デイ委員会という組織が
毎年ベスト・ファーザー賞を発表しています。
選考基準は
・ 明るく楽しい家庭づくりをしている父親
・ 父親学の実践者
・ 子供たちの良き理解者、良き教育者
・ 社会の福祉に貢献し素敵な父親像をアピールしている人
などがあり、さまざまな意味で「素敵なお父さん」
と呼べる人を選び表彰するという趣旨のものです。
映画「父は家元」で垣間見えるお父様としての愛情
また、茶道を通じて次世代を担う子供達に優しく語りかける
宗実家元は、まさしく
「ベストファーザー」だと思う筆者でありました。
6月14日 遠州公の愛した茶入「面壁(めんぺき)」
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州蔵帳所載の茶入「面壁」について
お話します。
作者は泉州堺の眼科医であり儒者であった
正意という人物と言われています。
茶人としても名高く、この茶入の他に
「初祖」「六祖」などの茶入もその手によると言われています。
茶入れの姿から達磨大師が、中国の少林寺で無言のまま九年間
壁に面して座禅し、悟りを開いたという故事をとって、
遠州公が命銘しました。
正意作の茶入はいずれもずんぐりとして肩が丸いので
禅僧の姿にちなんだ銘を付けています。
遠州公の茶会では5回ほど使用された記録が残っています。
6月 13日 会席と懐石
ご機嫌よろしゅうございます。
きょうは「かいせき」のお話を。
「懐石」と「会席」
同じく「かいせき」と読みますが、
この違いご存知でしょうか?
三月に行われました、「懐石と菓子」を主題とした
公開討論会で、冒頭お家元が解説してくださいました。
茶事で使われてきた漢字は本来「会席」のほうでした。
「懐石」の字が現れるのは元禄三年(1690)
利休没後百年に立花実山が書いたとされる「南坊録」から
「懐石」には 修行僧が、温めた石(温石)を腹に当てることで
空腹をしのいでいたことから懐の石という字が当てられており、
華美に走る傾向にあった当時の茶の湯に警鐘を鳴らす意味で
実山はこの字を当てたと考えられます。
酒井宗雅や松平不昧、井伊直弼などの大名、石州系ではこの
「懐石」の字をよく使っていたようで
一般的に使われるようになるのは明治頃からです。
遠州公の時代より古くから記録に残るのは「会席」
の方で、遠州流ではこれに習い、「会席」の字を用います。
普段私達が料亭で目にする「懐石」のお料理は
とても、修行僧の禅の精神からくる言葉とは結びつかない
豪華さで、語源を聞くといささか違和感を覚えます。
6月 12日 あじさい
ご機嫌よろしゅうございます。
雨の雫を葉にのせて、しっとりと濡れるあじさいの姿
梅雨時ならではの美しい風景です。
中国では紫陽花
日本では集真藍(あづさあい)、四ひらの花
と表しました。
現在のあじさいとは異なった、古くから日本に自生していた種は
「今井宗久茶の湯抜書」の天正17年に「アヂサイ」
とあります。
寛政元年五月、遠州公が品川林中の茶亭で、
三代将軍家光公に献茶をした際、
家光公が遠州公作の竹の二重切花入に
「アジサイ三リン」を入れた記録も残っています。
ただ使用例としては少ないといえます。
夏の茶会自体がそもそも少ないということも
一因としてあるようですが、
その色彩的、形状的理由あるいは入手のしやすさなどから
茶席に用いられることが少なかったようです。
6月11日 入梅(にゅうばい)
ご機嫌よろしゅうございます。
きょうは雑節の入梅にあたります。
暦の上での梅雨(つゆ)入りの日です。
梅の実が、 雨季にに入る頃ということから
入梅と呼ばれるようになったとか
この頃は湿度が高く黴〔かび〕が生えやすいため
「黴雨(ばいう)」が転じて梅雨(ばいう)
になったなどといわれています。
実際の梅雨入りとは異なりますが、
暦の上ではこの日から約30日間が梅雨の期間ということになります。
他の雑節同様、気象情報の発達していない時代、
田植えなどの農作業の目安として定められました。
古く「入梅」は、芒種の後の最初の壬(みずのえ)の日です。
陰陽五行説では「壬」は水の気の強い性格とされており、
水と縁がある日ということで、入梅の時期の目安に選ばれました。
明治以後は6月11日頃になります。
この梅雨の頃に獲れる真いわしのことを、
「入梅いわし」(にゅうばいいわし)と呼び、
1年の中で一番脂が乗って美味しいとされています。
6月10日 時の記念日
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は6月10日、時の記念日です。
671年(天智天皇十年)に、天智天皇が
唐から伝えられたという漏刻(水時計)で、
「時の奏」(太鼓や鐘を打って時を知らせる)を行い
宮中に時がつげられるようになった日が、
太陽暦に直すと6月10日だったという故事によるものです。
この時代に水時計の管理をしていたのは
陰陽寮の漏刻博士で、二人交替で水量を確認し、
鐘や太鼓で時報を鳴らしたそうです。
この記念日は大正九年(1920)、生活改善同盟の発意で
時間を尊重・厳守し、生活の改善・合理化などを
進めることを目的として定められました。
ちなみに時報のサービスは、
1955年(昭和30年)6月10日の
「時の記念日」より開始されました。
6月9日 五月雨(さみだれ)を…
五月雨を集めてはやし最上川
ご機嫌よろしゅうございます。
この俳句は江戸時代の俳人松尾芭蕉の有名な句です。
この句が詠まれたのは、元禄二年(1689年)に
最上川を訪れた時のことです。
この川は日本三大急流の一つにもあげられる
大変大きな河川です
初め船着場の家で行った句会で
「五月雨をあつめてすずし最上川」
と詠みました。
最上川から吹く心地よい風が、暑さを和らげてくれた
その情景を詠んだ句ですが、
その数日後、最上川を船で下ったとき、
「水みなぎつて舟あやうし」といった激しい川の流れ
であったので、「すずし」を「はやし」
とかえたのだそうです。
梅雨の一雫がやがて大河となる
その濁流に危険を感じながらも川舟で下る芭蕉が感じた
大自然の力と美しさが伝わります。
6月8日 宗湛日記
ご機嫌よろしゅうございます。
日曜日になりましたので、官兵衛の時代のお話を。
この時代の様子を知る資料として
「宗湛日記」があります。
神屋宗湛 (1551~1635)は、 安土桃山・江戸初期の豪商。
筑前博多で、先祖は石見銀山の開発に携わり、
宗湛は朝鮮・中国・ルソン・シャムと通商して巨利を得ました。
畿内の諸大名や千利休、津田宗及らと親交があり
大徳寺にて出家し、宗湛と号しました。
「宗湛日記」は、宗湛が秀吉時代に活躍したことを
まとめた茶会記等を記録し、
津田宗及の「天王寺屋会記」、今井宗久の「今井宗久茶湯書抜」、
松屋三代に渡る「松屋会記」と並ぶ、四大茶会記ともされますが、
現在では後世に作られたとする説もあります。
家康の時代になってからは、急速にその力を失ってしまいますが、
江戸時代には黒田家の御用商人となり
特に官兵衛、後の如水と宗湛は親交も厚く
黒田家が筑前に入国する際には、
如水はしばらく宗湛の家に滞在していたそうです。
6月7日 川越献茶式
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は埼玉・川越にてお家元の献茶式が行われます。
また6月15日には、恒例となりました「茶あそび彩茶会」にて
妖怪茶会・甲冑をつけての茶会などユニークな茶会も
催されています。
川越は、関東最古の茶の産地です。
平安時代には既にこの地に伝わり
鎌倉時代には明恵上人が河越の地に茶を栽植したとされ、
鎌倉末期から室町時代に虎関師錬が著した「異制庭訓往来」
に全国の茶の産地の一つとして「武蔵河越の茶」
と記載されています。
江戸時代初期の川越城主だった酒井忠勝や堀田正盛、松平信綱は
遠州公との交流を通して、川越藩の茶業を活発にしていきます。
それ故川越藩と遠州流の関わりは大変深く、
市内の喜多院や蓮馨寺には遠州流の庭園が残されています。
献茶式にお越しの際は是非足をのばして
ご覧ください。