6月26日 ハマナス
ご機嫌よろしゅうございます。
今日はこの季節に咲く花「ハマナス」を
ご紹介します。
主に赤い花を咲かせる「ハマナス」は、
浜に生え、果実が梨に似た形をしていた
ことからハマナシ(浜梨)という名がつけられましたが
東北地方でハマナスとなまって、そのなまりのまま
ハマナス(浜茄子)と言われるようになった、
と言われる珍しい花です。
バラ科で棘があり、
茶花では棘のある花はあまり好まれませんが
このハマナスは例外として昔から用いられます。
花のあとにつく紅い実を食用とし
ローズヒップティーとなります。
北海道の道花としても親しまれています。
6月 25日 南風(みなみはえ)
ご機嫌よろしゅうございます。
梅雨明けが待ち遠しい今日この頃です。
この季節吹く風を南風とよんでいます。
太平洋上で発達した高気圧から吹き寄せる季節風
をいい、大漁を約束するといわれる南風。
漁師たちはこの風を心待ちに、海を見つめます。
もともと漁師言葉であったようですが、
俳句の季語にもなっていて
梅雨の黒雲の下で吹く風を黒南風(くろはえ)
梅雨明けの頃吹く南風を、白南風(しろはえ)と言います。
白い風が空に流れて夏の訪れを告げます。
梅雨に入る黒、梅雨が明け盛夏へ向う白と、
同じ南風を明快に言い分け、
季節の変化を感じさせてくれる季語の一つです。
6月 24日 宗中公命日
ご機嫌よろしゅうございます。
今日6月24日は小堀家8世 小堀宗中公の命日です。
天明6年(1786)小堀大膳亮政寿(まさひさ)の嫡子として
近江の小室に生まれました。
小室領地が没収されてからは、京都孤篷庵で育ちます。
この頃の日本は大飢饉が起こり、世の中が疲弊し乱れはじめます。
田沼時代から松平定信が政治の実権を握る時代。
40年という長い間、浪人としての生活が続きますが
要職を歴任し譜代大名並の格式を許された五世政峯宗香公の功績
と遠州公以来の家柄を評価され、
文政11年(1828)に幕臣として召しだされます。
改易の時に親類に引き取られていた、
遠州以来の諸道具も戻され「遠州蔵帳」のほとんどが伝来します。
茶法は父、政寿や小堀家茶道頭の富岡友喜から学び、
多くの弟子を排出します。
尾張徳川家に招かれ御蔵器財の分類、目利き、整理なども行っています。
また、茶道を通じて狩野派など芸術分野の人との交流も多く、
合作で各種の作品を残しています。
慶応三年6月24日、82才で江戸屋敷で亡くなります。
遠州流中興の祖です。
6月 23日 玉柏(たまがしわ)
雨中木繁といふ心を
玉柏しげりにけりな五月雨に葉守の神のしめはふるまで
新古今和歌集
みごとな柏の木は、降りつづく梅雨に、
繁りに繁ったものだ。葉を守る神が、
結界を張ったかのように見えるまで。
「玉」は美称で、玉柏は立派な柏の木という意味
葉守(はもり)の神は柏の木に宿るとされています。
そんな柏の木に宿った葉守りの神が
まるで、柏を包み込んで守っているかのように
しとしとと降る雨で一層青さを増している
様子が思い浮かびます。
6月 22日 荒木村重(あらきむらしげ)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は日曜日。
軍師官兵衛の時代のお話を。
官兵衛を有岡城に幽閉した荒木村重は
有岡城落城の際には妻子、家臣を置いて
背中に 兵庫壷と呼ばれる茶壷を、
腰には立桐鼓という鼓(つづみ)をくくりつけて
わずかな家来と共に脱出したと言われています。
安岐の毛利を頼り、信長の死後まで生きながらえますが、
城に残された妻子、家臣は信長によって惨殺されてしまいます。
本能寺の変の翌年、「津田宗及茶湯日記」に
堺で荒木道薫という人物の昼会が記されています。
この道薫は剃髪した村重その人で、毛利と秀吉の講和がなされ
堺に戻ってきたと考えられます。
戦に敗れ入道となり、茶湯三昧の日々を送った村重は
後に、利休七哲にも数えられ(十哲とも)る茶人となるのでした。
6月 21日 夏至(げし)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は夏至にあたります。
一年のうちで最も昼間の時間が長くなるのが
夏至です。
この日に関西ではタコ、関東では焼き餅を食べる地域も
あり、地域性が表れます。
北欧では白夜が有名ですが日照時間が短いので、
昼間の最も長い夏至は、とても大切な日とされ
様々な国で夏至祭が催されたり、
国中が週末お休みになる国もあるようです。
日本でも近年ではこの夏至の日に
環境に対する取り組みという観点から
短い夜をキャンドルの灯だけですごそうといった
イベントも行われています。
6月 20日 遠州公の会席
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公が会席で使用した「角切らず」の縁高について。
私達がよく目にする縁高は、
木地に漆をかけた、いわゆる塗り物が
ほとんどではないかと思います。
遠州公の時代、
木地のままの器が会席でよく使用されました。
漆をかけていないので、当然器に盛った食べ物
の汁などで染みができてしまいます。
そのお客様のためだけの、一度きりのもの
という意味で、使い回しのきかない
木地の器は、当時塗りものよりも正式なものでした。
遠州公の会記には
「木地 縁高 角不切(すみきらず)」と書かれており
一枚のへぎ板( 鉈を使わず手で割いた板)
で切らずに作った大変手間のかかる器を使用しています。
6月19日 月見草(つきみそう)
富士には月見草がよく似合う
太宰治の「富嶽百景」にある一節です。
日本一といわれる富士の姿に、
はかなげな月見草の美しさが対比されて美しい風景が
頭に浮かびますが、
作中では金剛力草と書かれ、黄色い花となっています。
実際の月見草は白い花で、この「富嶽百景」に
登場するのはオオマツヨイクサかマツヨイクサではないかと
植物学者は推測しています。
6月のこの頃に咲き出す月見草。
自らの姿を、富士という雄々しい姿の前にはかなくも美しく
咲くこの花になぞらえたとも読めます。
6月13日に玉川上水に入水自殺した太宰治は
奇しくも誕生日である19日に遺体が発見され、
以後6月19日を「桜桃忌」として
墓所のある禅林寺(三鷹市下連雀)で法要が行われます。
現在でも多くの方が、この桜桃忌に参拝に訪れます。
6月 18日 いい塩梅(あんばい)
ご機嫌よろしゅうございます。
梅雨の季節は梅のなる頃というお話を
昨日いたしました。
梅といえば
「いい塩梅」という言葉がありますが、
これはお塩とお酢のことです。
塩は人体に不可欠なもの
また食酢が普及する以前は、梅の塩漬けで出来る
梅酢が利用されました。
ここから味加減のことを「塩梅」という言葉が生まれます。
この塩と酢が日本の調味料の原型です。
これに後々醤油やひしおが加わっていきます。
古来、上流階級の料理は、食事とともに調味料が出され
食べる本人が味をつけて食べるスタイルでした。
それが茶の湯において限られた空間の中、
食事をいただくようになってはじめて
(調味料を出せないため)予め味付けをしてお出しする、
現在に通じる調理法と
なったのです。
現在月刊「遠州」に掲載中の宗有公の「数寄記録」
において12ヶ月の献立が記されていますが、ここで
「夫(それ) 会席の献立 趣向 塩梅は
浜の真砂にて 何ぞ極まらむ」
と書かれています。
6月 17日 梅
ご機嫌よろしゅうございます。
うっとおしい梅雨が続きますが、
「梅雨」の語源は、梅の実が熟す季節に降る雨
といわれています。
初春に美しい花を咲かせていた梅は、
この時期、丸くて青い実をつけます。
梅酒につけるには青くてかたい実を
梅干しは完熟のものが適しています。
梅干しは平安時代には既にあったようで
当時は、熱さましなどの薬用として食されていました。
戦国時代、武将達は
食糧袋に「梅干丸(うめぼしがん)」
を常に携帯していたそうです。戦場で倒れたときや元気を失った
時、 また合戦中の休息に梅干しを見て唾液分泌を盛んにし
脱水症状を防ぐ目的にも使われました。
梅干しは戦略物資の一つとなり、
武将たちは梅の植林を奨励したそうです。
現在でも梅の名所や梅干しの産地として残っています