5月23日 遠州公時代の三河の名所
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は伊勢物語に出てきた三河の八つ橋について
遠州公が歌った和歌をご紹介します。
遠州公が元和七年(1622)43歳のときに
江戸から京都へ上った際の日記があります。
八つ橋というところに着いた。
燕子花の名所ということなので
さぞかしたくさん咲いているのだろうと思って
いたけれども、全く咲いていなかった。
やつはしに はるばるときてみかはなる
花には事をかきつばたかな
と言ったらお供のものが大変おもしろがった
とかかれています。
「花に事欠く」と「かきつばた」をかけたのですね。
平安時代、燕子花の名所であった三河は
遠州公の時代には名所がどこであったか
その場所もわからなくなっていたようです。
5月 22日 江戸っ子
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は江戸っ子についてお話をしたいと思います。
江戸に生まれ、江戸に暮らす
喧嘩っ早く、涙もろい、粋でいなせな性格
そんな人を江戸っ子と呼びました。
江戸っ子は五月の鯉の吹き流し
五月に空を泳ぐ鯉のぼり
そのお腹には初夏の爽やかな風が吹き抜けていきます。
口先ばかり 腸(はらわた)はなし
と続くこの言葉は
江戸っ子の気質を表す句として知られています。
江戸っ子は言葉づかいは荒いが,
腹に何もなく気持ちはさっぱりしているということ。
また,江戸っ子は口先ばかりで内容がない
という意味にも使われるそうです。
小説では夏目漱石の「坊ちゃん」
映画では「男はついらいよ」「一心太郎」などが
江戸っ子の主人公として描かれています。
5月21日 小満(しょうまん)
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は24節気の小満にあたります。
立夏ら数えて15日目頃をさし、
この時期を麦秋ともいうように
秋に蒔いた麦の穂がつく頃です。
農耕を生業とした時代には、作物の収穫は生命線です。
今年も順調でよかった。
と満足したことから小満と言う名前が付いたとか
万物が次第に長じて天地に満ち始めることから
小満と言われる
など諸説あるようです。
また、はしり梅雨と言われる雨が降り始めます。
これは本格的な梅雨に入る前の、ぐずつく天候のことで
この後晴れた日が続き、その後本格的な梅雨に入ります。
「梅雨の走り」ともいいます。
5月20日 あやめとかきつばた
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「燕子花」の花のお話を。
いづれあやめかかきつばた
物の区別がつかないことの例えとして用いられる
言葉の通り、一見すると
「あやめ」と「かきつばた」の見分けは難しいですね。
葉の形で言えば
葉の幅がやや広いのが「かきつばた」
花を見れば
花の中側に黄色と紫の虎斑模様があるのが「あやめ」
で「かきつばた」にはそれがなく、黄色だけ
というところで見分けがつきます。
宗実御家元は五月になると好んで用いています。
映画「父は家元」の花を入れるシーンは記憶に新しいところです。
5月19日 燕子花(かきつばた)
ご機嫌よろしゅうございます。
初夏に咲く花といえば
燕子花が思い浮かびます。
そしてかきつばたといえば
この和歌が浮かぶのではないでしょうか?
からころも
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞおもふ
歌の頭に
「かきつばた」と詠みこまれたこの和歌は
伊勢物語「東下り」の有名な和歌です。
失意の主人公が、東国で再出発しようと思い立ち
数人の連れと京から離れ、はるばる旅を続けます。
途中三河の八つ橋というところに行きつき、
かきつばたが大変美しく咲いていました。
着慣れた唐衣のように慣れ親しんだ妻が
(京には)いるにもかかわらず、
はるばる旅をしてきたことよ
と詠むと、皆さめざめと泣き
その涙でもっていた干飯(かれいい・携帯用のご飯)
がふやけてしまったよというおちもあり、
泣かせながら、ほんの少し笑わせます。
この物語は後に人々に広く受け入れられ
尾形光琳の燕子花図屏風など様々な絵画のモチーフとして
好んで使われました。
5月 18日遠州公の茶の湯
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州公が茶の湯を始めたころの
お話を。
十五歳頃に大徳寺春屋宗園禅師に参禅し、
修行を積みながら
古田織部のもとで茶の湯を本格的に学んで行きます。
遠州公が十八歳の時に
「洞水門(どうすいもん)」を考案しました。
これは現在水琴窟と呼ばれているものの原形と言われています。
茶室に入る前には手と口を
蹲(つくばい)で清めます。
当時の蹲は水はけが悪く、
何度か使用すると、周りに水が溜まってしまい
大変使いにくいものでした。
これを若干十八歳の遠州公が
この蹲の地下に瓶を仕込み、
水滴が瓶の中に落ちる時に、水はけをよくし、
美しい反響音がする仕組みを考案しました。
遠州公の茶の湯の師であった
古田織部も遠州公の才に大変驚いたと
言われています。
遠州好みの面取がもっともよく表れたものでその形状から小堀遠州が命銘したと思われます。高取焼きは遠州公指導の窯の一つで遠州高取とも呼ばれます。
この茶入は、その遠州高取の絶頂期である白旗山窯(寛永七年・1630)のときに作られたものとされています。遠州公の茶会記に高取焼茶入が初めて登場するのが寛永五年(1628)4月23日で、同じ年に6回、寛永十年(1633)に1回、寛永十九年(1642)に2回、合わせて約九回使用したことが確認できます。
このうちこの下面が使用されたと考えられるのは寛永十年以降と思われます。遠州公以来小堀家歴代に伝わる茶入です。
遠州公の代表的な好みの一つが「面取(めんとり」です。きっぱりと面を取ったシャープなラインが特徴で今の時代にみてもモダンにうつります
この特徴は特に茶入と茶碗に多いものです。茶入には高取「下面」があります。寛永の始め頃、九州高取の白旗山に窯を築かせそこでできたものです。茶碗で有名なものには三井文庫蔵の遠州書付「面」があります。
もともとこの面取りという意匠は瀬戸の茶入真中古窯(瀬戸の茶入の分類名)にあるもので遠州公の好みとするものとして、中興名物にも選ばれています。他に薩摩焼やオランダで焼かれた茶碗にも下面の意匠を用いています。また茶碗茶入以外にも釜や薄茶器、水指などに面取が見られます。
5月15日 村田珠光(むらたしゅこう)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日5月15日は村田珠光の命日です。
珠光は応永三十年(1423)に生まれ、文亀二年(1502)の
5月15日に亡くなったといわれています。
少年のころ奈良の称名寺に入り出家
その後30歳の頃に大徳寺の一休和尚に参禅します。
月も雲間のなきは嫌にて候
藁屋に名馬繋ぎたるがよし
など
「冷え枯るる」精神を茶の湯に吹き込み
侘び茶の創始ともいわれています。
それまでは部屋に茶道具を飾り、別の部屋でお茶を点てて
運んでいた茶室が、珠光によって
主客同座となり、床の間に墨跡を掛け、
禅の精神で茶を喫する場に変わっていきます。
珠光という号は剃髪し僧となってからの号なので
俗名である村田と並べて呼ぶのは本来おかしいのですが
現在では、村田珠光と呼ぶのが通例となっています。
5月 14日 卯の花腐し(うのはなくたし)
旧暦四月の異名は卯月といいますが
卯は卯の花(うつぎ)のことで
その頃降り続く長雨のことを
「卯の花腐し」といいます。
卯の花を腐らせるような雨という意味からついた名称です。
適度な湿気は花の美しさを引き立てますが
しばらく雨が続くとクタクタになってしまいます。
和歌では万葉集からこの言葉が見られ、
それほど多くはありませんが近世まで
詠まれ続けました。
卯の花を 腐す霖雨(ながめ)の始水(みづはな)に
寄る木屑(こつみ)なす 寄らむ児もがも
『万葉集』(霖雨の晴るる日作る歌一首) 大伴家持
卯(う)の花を腐らせる長雨の流れる水に寄ってくる木屑(きくず)のように、
(私に)寄り付いてくれる娘さんがいたらいいのに。
いとどしく 賤しづの庵の いぶせきに
卯の花くたし 五月雨ぞする
『千載集』(五月雨の歌とてよめる) 藤原基俊
ただでさえ卑しい身分の我が家は鬱陶しいというのに
この季節は卯の花を腐らして五月雨が降りつづき
いっそう気分がふさいでしまうことよ。
五月下旬は天気の悪い日が多く、
曇り空は卯の花曇り、卯月ぐもりともいいます。