旧暦 の8月1日

2014-8-25 UP

8月25日 旧暦 の8月1日

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は旧暦でいう8月1日

この日は秀吉により関八州を与えられた
徳川家康の江戸入城の日でもあり、
後に江戸幕府の大事な式日、
「八朔御祝儀の日」となりました。

江戸城は太田道灌が築城して以後、
荒廃が進んでいました。
要地からも離れ、長年徳川の領地であった
三河を発ち、入った江戸という未開の地。

天正十八年(1590)の8月1日
徳川家康が駿河から始めて江戸城に移った日、
家康とその家臣全員は白装束に身を固め、
城に入ったといいます。

この日から江戸の繁栄はスタートしたのでした。

大膳宗慶命日

2014-8-24 UP

8月 24日 大膳宗慶命日

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は遠州公の後を継いだ二代目大膳宗慶のお話を。

元和六年(1620)2月15日、父遠州公四十二歳の
時、藤堂高虎の娘を母として、伏見奉行屋敷で
誕生します。

小さい頃から能書の誉れ高く、そのエピソードは
4月1日にもご紹介した通りです。

茶道修業にも熱心で、父遠州公にその茶法を学び、
二十代前後で大先達の御相伴も勤めるほどでした。

公職を離れた晩年五十三歳
江戸屋敷で連日連夜に渡り33回の茶会をするなどしています。
父遠州公より受け継いだ茶道の正統を文書に残し、
諸道具の整理・遺物帳等も作成しました。

延宝二年(1674)8月24日
五十五歳で江戸屋敷でなくなります。

処暑(しょしょ)

2014-8-23 UP

8月 23日 処暑(しょしょ)

初秋や海も青田の一みどり
芭蕉

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は24節気でいう「処暑」
処暑とは、暑さが終わるという意味です。

『暦便覧』では
「陽気とどまりて、初めて退きやまむとすれば也」
とあります。
台風襲来の特異日ともされており注意が必要です。

とはいえまだまだ昼間は暑い日が続きますが、
朝夕は涼しい風が吹いて、
過ごしやすい日も増えてくる頃ではないかと
思います。

それにしても今年は5月から30度を超える日が
続き、夏が長く感じられます。

2014-8-22 UP

8月 22日 あるエピソード

ご機嫌よろしゅうございます。

19日にご紹介した定家様にちなんで
エピソードを一つご紹介します。

当時大変な人気のあった定家の一幅を
なんとか手に入れようと皆必死になっていましたので
本物に混ざって定家の筆では無いものも出回っていました。

ある日、加賀前田家でも一幅手に入り、
定家様の権威である遠州公が茶会に招かれました。
遠州公がどんな批評をされるのか
襖の奥から皆注目していましたが、
とうとう茶会の最後まで遠州公はその
掛け物について何もおっしゃいませんでした。

不思議に思った前田公は、茶会の後遠州公の屋敷に
使いを出し
「先ほどの定家はいかがでしたか?」
と尋ねますと
「あれは私が書いたもので、誰かが手に入れて
定家にしてしまったのでしょう。
自分の字を褒めるわけにはいきません。」
と話されたといいます。

今宵は月を眺めてみませんか?

2014-8-21 UP

8月 21日 今宵は月を眺めてみませんか?

ご機嫌よろしゅうございます。

十五夜に限らず、特定の月齢の月が出るのを待ちながら
飲んだり食べたり、宴を開いて楽しく過ごす

そんな「月待ち講」という
行事が江戸時代に流行しました。

特に旧暦7月の26日、

人々は飲んで騒いで楽しいひと時を過ごしながら
二十六夜の細い下弦の月が出るのを
待ちました。

明るい電気と絶えず流れるテレビの映像に
つい見入ってしまう現代とは比べものにならないほど
時がゆったりと流れ、
豊かな楽しみ方だなあと感じます。

今日はその二十六夜です。
月がでるまで宴会を…とまではいかずとも
お休み前にほんの少し夜空を見上げてみませんか?

清少納言も食べていたかき氷

2014-8-20 UP

8月 20日 清少納言も食べていたかき氷

ご機嫌よろしゅうございます。

暑い夏に食べたくなるかき氷
実は平安時代にも同じようなものがあったようです。

清少納言は「枕草子」の中で
かき氷を「あてなるもの」つまり
上品なものの中に挙げています。

削り氷にあまづら入れて
新しきかなまりに入れたる
水晶の数珠 藤の花 梅の花に雪の降りかかりたる…

削った氷にアマヅラの甘い煮汁をかけたものを金属の器にのせる。
氷の冷気で金属の器も冷え、水滴がつく様子も
見ていてとても涼しげだったことでしょう。

もっとも今のように氷がいつでも手に入る時代では
なく、氷室と呼ばれる天然の貯蔵庫に保存していた氷を
削ったもので、当時は大変貴重なものでした。

カキ氷が庶民の口に入るようになったのは
氷が比較的入手しやすくなった明治になってから
のようです。

藤原定家(ふじわらのていか)

2014-8-19 UP

8月19日 藤原定家(ふじわらのていか)

ご機嫌よろしゅうございます。

 今日は藤原定家の命日です。

 定家は平安末期の歌人で、新古今和歌集、
 新勅撰和歌集と、二つの勅撰集の編者となりました。

 遠州公は当時、「定家様」の第一人者
であり、また「歌銘」も多く付けたことから
定家は遠州流では比較的馴染みのある歌人かもしれません。

 「定家様」とは藤原定家の筆跡を踏襲するもので
同じ時代の消息などに比べると流麗とは
言い難い、特徴的な字体といえるでしょう。

これは本人も「悪筆」と認めていたところですが
印刷技術のない当時、書物は全て筆で写していたわけで
一つ一つの文字がしっかりしている
定家の字体は早く正確に書写するのに非常に適していました。

 後に定家様、また小倉百人一首を書いた色紙は
茶人の間に大変な人気となるわけですが
 この辺についてはまた次回。


豊臣秀吉

2014-8-18 UP

8月18日 豊臣秀吉

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は8月18日 豊臣秀吉の命日に当たります。

秀吉と小堀家との所縁は深く、
浅井家が滅亡した天正元年以後、
秀吉が長浜在城の際、
出家の身であった遠州公の父・新介公を、見出して還俗させたと
いわれています。

昨日、また5月25日にも触れました通り
天正4年には信長に初めて茶道具を拝領し、6年に初茶会
その後は数々の大規模な、華やかな茶会の記録を残します。

異例の出世、天下取りの野望を果たしながら、
その後は幼い我が子の前途を案じて
慶長三年(1598)  六十三歳で、こんな歌を残してこの世を去ります。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな
浪速のことは 夢のまた夢

秀吉の黄金お茶室

2014-8-17 UP

8月17日 秀吉の黄金お茶室

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は官兵衛の時代のお話を。

秀吉といえば黄金の茶室が有名です。
天正十四年、禁中に黄金の茶室を持ち込み、
茶会が行われました。
天井から壁、茶道具に至るまで金色で
埋め尽くされた三畳敷きの茶室。
豪華絢爛の趣向、侘びとは真逆に感じますが
これは決して成金趣味というようなものではなく、
天皇陛下にお茶を差し上げるための相応な設えだった
と捉えるほうが正しいようです。

天皇陛下にお使いいただくお茶道具が
既に人の触れたものであってはならないので
使用するものは全て新品。

そして、不可侵的存在である天皇陛下を茶の湯でもてなす
禁中で茶会が催されたということは
天皇陛下をもてなすのに「茶の湯」が選ばれたということであり
茶人にとってはこの上もない誉れでありました。

薮入り(やぶいり)

2014-8-16 UP

8月16日 薮入り(やぶいり)
ご機嫌よろしゅうございます。

今日はお盆の送り火をする方、
お休みを終えて、ご自宅に帰る方も多いかと思います。

その昔、奉公人のお休みは年二回
旧暦でいう1月16日と7月16日で、
この日を「薮入り」と呼びます。

それぞれの前日が旧正月とお盆という重要な行事を終え、
主人に着物やお小遣いを与えられ、
この日ばかりは大手を振って実家に帰ったり、芝居小屋で遊んだり
できる唯一のお休みですから、
どんなにか待ち遠しかったことでしょう。

「盆と正月がいっぺんに来たようだ」
という表現はまさしくこのこと。

お盆の時期は、霊が里帰りして地獄にいないので、
閻魔様もお休みです。
地獄もお休みするくらいだから
人もお休み…といったところでしょうか。