袱紗をつける位置

2014-9-5 UP

9月5日 袱紗をつける位置

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は袱紗を腰につける位置について

お茶を点てる際、点法で使う袱紗を
腰につけますが、これを右につける流儀と
左につける流儀があります。

遠州流は右側です。その理由は

近衛家の待医師であった山科道安が、近衛予楽院の言行を
日記風に著わした「槐記」という
文献の中にこんな記述があります。

宗旦は生まれ付き左利きにてあり故に…

千宗旦は利休の孫にあたり、後にその子供達が表千家、
裏千家、、武者小路千家をつくっていきます。

つまり宗旦から広まった千家流では
袱紗を左につけているということのようです。

要するに利き手の違い。
右利きだった茶人は、当然右につけていたと考えられます。

その違いが今お流儀の点法の違いにつながっていく
のだとすると、面白いですね。

虚堂智愚(きどうちぐ)

2014-9-4 UP

9月4日 虚堂智愚(きどうちぐ)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は南宋時代の高僧「虚堂智愚」について
お話をしたいと思います。

虚堂智愚は、四明象山(浙江省)の出身。
諸刹に歴住し、宋の理宗と度宗の帰依を受けた高僧で
日本から入宋した多くの禅僧が参じました。
とりわけ宗峰妙超(大燈国師)の師である
南浦紹明(なんぽしようみよう)はその法を継いで
帰朝し,大徳寺,妙心寺両派によってその法脈を今に伝えています。

後に茶道が大徳寺派の禅と密接な関係をもって発展することから
虚堂の墨跡は大変珍重されました。

その有名なものに「破れ虚堂」があります。
武野紹鴎が愛玩し、後に京都の豪商大文字屋が手に入れます。
ところが寛永14年(1637)、使用人が蔵に立てこもって
この掛け物を切り裂き、自害するという事件が起こりました。

この事件により「破れ虚堂」という名称が生まれ、
皮肉なことにその名声もこれまで以上に広まりました。

江戸時代後期に松江藩主、松平不昧が入手し、
永く雲州松平家に伝えられました。

現在ではどこが破れたのかわからないほど綺麗に
修復されて、現在は東京国立博物館の所蔵となっています。

今日はその虚堂智愚のご命日にあたります。
(1185ー1269)

おわら風の盆

2014-9-3 UP

9月 3日 おわら風の盆

ご機嫌よろしゅうございます。
暦の上では秋を迎え、初秋の風の吹く9月。

各地ではお祭りがまだまだ行われています。
その中で幻想的といった言葉が当てはまるのが
この「おわら風の盆」ではないかと思います。

富山県富山市八尾
この地域で元禄の頃から続き、
守り伝えられてきた民謡行事。

夕暮れ時、柔らかい灯りがともされます。
その通りを揃いの浴衣に、編笠の間から少し
顔を覗かせ哀愁漂う音色に合わせて、静かに踊り
練り歩く姿は、とても美しく見る者皆
おわらの世界に引き込まれます。
まさしく幻想的で優美な世界。

その地域の人々の行事として古くから行われ、
あまり観光客向けに派手派手しい趣向に
変化していないところが、
また風情を感じ、秋の夜に相応しく感じられます。

長月(ながつき)

2014-9-1 UP

9月1日 長月(ながつき)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日から9月となりました。

9月を長月ともいい、
夜が長くなるから、夜長月が縮まって長月と
なったという説があるように
秋の夜長、月を眺め楽しむには最適の
季節が訪れました。

茶の湯の世界では
5月1日にご紹介しました通り、
風炉の灰形が変化する時です。
初風炉の季節に真だった灰形が盛夏に行の灰形となって、
今月から10月までが草となり
流線型の、すっきりとした灰形に形をかえます。

夏を彩ってきた草花も徐々に終わりを告げて行く頃
薄や吾亦紅(われもこう)、薊(あざみ)など
秋風を感じる草花がいっそう床の間に映えます。

やさいの日

2014-8-31 UP

8月 31日 やさいの日

ご機嫌よろしゅうございます。
きょうは8月31日、やさいの日です。

16世紀に来日したイエズス会士たちの報告には
当時の日本の食事について

―本来甚だ肥沃にして僅かに耕作することにより、
多量の米を得、即ち当国の主要なる食料なり。
又、麦、粟、大麦、カイコ豆、其の他豆類数種、
野菜は蕪、大根、茄子、萵苣(ちしゃ)のみ、
又、果物は梨、石榴、栗等あれども甚だ少なし。
肉は少なく、全国民は肉よりも魚類を好み、
其の量多く、又、甚だ美味にして佳食なり。
(永禄9年ビレラ書簡)

とあり、大根、茄子などを食べていたことがわかります。

それらももとは外来種で、日本原産の野菜と考えられるのは
フキ・ミツバ・ウド・ワサビ・アシタバ・セリなど。

白菜やトマト、玉ねぎのような
現在私たちが毎日のようにいただく野菜のほとんどは
江戸時代~明治以後に日本に入ってきたもの
ということに驚きます。

白花秋海棠(しろばなしゅうかいどう)

2014-8-30 UP

8月 30日 白花秋海棠(しろばなしゅうかいどう)

ご機嫌よろしゅうございます。

そろそろ秋の気配もかんじられるこの頃
籠に入れる茶花も徐々に秋の風情を帯びてきます。

秋海棠というと一般的には淡紅色の花ですが
当時、信濃町にあった宗家の裏庭には
白花の秋海棠が咲いていました。

この秋海棠は八世宗中公が江戸屋敷で愛玩していた
もので、その種子を蒔いて繁殖させたものです。

淡紅色の秋海棠よりも葉の色が濃く、また葉裏の
葉脈が濃紅色で色映りが大変美しく、
また背丈も高いのが特徴です。

宗中公以来百年以上の歴史を持つ花で
近くに紅色の秋海棠が植わっているとその
色に染まってしまう性質があるため
白花は大変貴重です。

ご先代はこの白花秋海棠の写生をされています。

遠州公の白

2014-8-29 UP

8月 29日  遠州公の白

ご機嫌よろしゅうございます。

8月8日に、遠州公が抹茶の製法を
「白茶」に戻したお話をいたしました。

そして織部の緑
これには茶人の好みが反映されています。

それぞれの茶人の好みをシンプルに色で表すとするなら
利休の「黒」
織部の「緑」
遠州の「白」
とお家元は表現しています。

全てを包有する、他の存在を許さない「黒」
己の感性を先鋭に表した「緑」
「黒」も「緑」をも受け入れることのできる「白」

利休、織部の茶は己の精神.主観性を追求するもの。
それに対して
遠州はその日のお客様に合わせて
その好み・趣向を考え、道具の取り合わせを自在に
変えるなど相手の心を映した茶でした。

オリンピック招致で話題となった
「おもてなし」の日本の心ですが、
茶の心、とりわけ
この遠州公の「白」の好みが生きているような気がいたします。

道元禅師

2014-8-28 UP

8月28日 道元禅師

ご機嫌よろしゅうございます。

茶道は禅の精神と深い関係がありますが
今日は曹洞宗の開祖道元禅師のご命日にあたります。

若くして両親を失い、出家して後、中国に渡り
修行を積んだ道元禅師は、将軍の帰依を受けながらも
権力に染まることを拒み、
福井の永平寺でひたすら仏道に励まれます。
鎌倉時代に定着していった禅宗の規律は
茶法にも大きな影響を与えていきます。

さて道元禅師と共に中国に渡り、
帰国した陶工がいます。
この人物が加藤四郎左衛門景正(かとうしろうざえもんかげまさ)
瀬戸焼の祖といわれています。

茶入はもともと中国の小壷などが転用されて、
茶道具となりましたが、瀬戸焼が生まれ、
日本で最初から茶入として焼かれるようになりました。

初代の作を古瀬戸と呼び、名前を略して藤四郎と
いわれることもあります。

虫聞き(むしきき)

2014-8-27 UP

8月 27日 虫聞き(むしきき)

夏の夜
虫の音が聞こえると、
暑さも少し和らぐような気がします。

東京向島の百花園では例年「虫ききの会」
が開かれます。

虫ききの会の始まりは、
天保二年(1831)
仏教の不殺生の思想に基づいて、
捕らえられた生き物を、山野や沼地に放って
供養する仏教の儀式「放生会(ほうじょうえ)」
が原型。

向島百花園では、天保二年に没した
初代佐原鞠塢(さはらきくう)を追善するために、
縁者が「放生会」を行ったことが始まりといわれ
明治には来園者が虫の音を楽しむという企画ができ
今日の夕涼みをしながら楽しむ夏の風物詩
「虫ききの会」になったそうです。

江戸後期、仙台出身の骨董商だった
佐原鞠塢(さはら きくう)が開いたのが
植物庭園「向島 百花園」です。
太田南畝や酒井抱一などの文化人が
佐原鞠塢のもとに集いました。

鶏卵素麺

2014-8-26 UP

8月 26日 鶏卵素麺

ご機嫌よろしゅうございます。

夏になると食べたくなる素麺。
今日はその素麺の姿をした甘いお菓子
「鶏卵素麺」をご紹介したいと思います。

「鶏卵素麺」はその名の通り氷砂糖と卵黄で、
素麺状つくられたお菓子で、安土桃山時代にポルトガルから
伝来したといわれています。

江戸時代に出島で製法を学んだ松屋利右衛門が
1673年に博多に戻って販売を開始し、
延宝年間に福岡藩三代目藩主の黒田光之に鶏卵素麺を献上し
御用菓子商となったといわれています。

森八の「長生殿」、大和屋の「越の雪」に並び
日本三大銘菓の一つに挙げられることもあります。
(鶏卵素麺のかわりに「山川」が数えられることもあります。)

卵のコクと甘み、しゃりっとした食感が独特で
一度食べるともう一つ食べたくなる銘菓です。
お茶席でもいただきやすいよう、
最近では素麺を昆布で束ねた形のものも
販売されているようです。