9月5日 袱紗をつける位置
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は袱紗を腰につける位置について
お茶を点てる際、点法で使う袱紗を
腰につけますが、これを右につける流儀と
左につける流儀があります。
遠州流は右側です。その理由は
近衛家の待医師であった山科道安が、近衛予楽院の言行を
日記風に著わした「槐記」という
文献の中にこんな記述があります。
宗旦は生まれ付き左利きにてあり故に…
千宗旦は利休の孫にあたり、後にその子供達が表千家、
裏千家、、武者小路千家をつくっていきます。
つまり宗旦から広まった千家流では
袱紗を左につけているということのようです。
要するに利き手の違い。
右利きだった茶人は、当然右につけていたと考えられます。
その違いが今お流儀の点法の違いにつながっていく
のだとすると、面白いですね。
9月4日 虚堂智愚(きどうちぐ)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は南宋時代の高僧「虚堂智愚」について
お話をしたいと思います。
虚堂智愚は、四明象山(浙江省)の出身。
諸刹に歴住し、宋の理宗と度宗の帰依を受けた高僧で
日本から入宋した多くの禅僧が参じました。
とりわけ宗峰妙超(大燈国師)の師である
南浦紹明(なんぽしようみよう)はその法を継いで
帰朝し,大徳寺,妙心寺両派によってその法脈を今に伝えています。
後に茶道が大徳寺派の禅と密接な関係をもって発展することから
虚堂の墨跡は大変珍重されました。
その有名なものに「破れ虚堂」があります。
武野紹鴎が愛玩し、後に京都の豪商大文字屋が手に入れます。
ところが寛永14年(1637)、使用人が蔵に立てこもって
この掛け物を切り裂き、自害するという事件が起こりました。
この事件により「破れ虚堂」という名称が生まれ、
皮肉なことにその名声もこれまで以上に広まりました。
江戸時代後期に松江藩主、松平不昧が入手し、
永く雲州松平家に伝えられました。
現在ではどこが破れたのかわからないほど綺麗に
修復されて、現在は東京国立博物館の所蔵となっています。
今日はその虚堂智愚のご命日にあたります。
(1185ー1269)
9月 3日 おわら風の盆
ご機嫌よろしゅうございます。
暦の上では秋を迎え、初秋の風の吹く9月。
各地ではお祭りがまだまだ行われています。
その中で幻想的といった言葉が当てはまるのが
この「おわら風の盆」ではないかと思います。
富山県富山市八尾
この地域で元禄の頃から続き、
守り伝えられてきた民謡行事。
夕暮れ時、柔らかい灯りがともされます。
その通りを揃いの浴衣に、編笠の間から少し
顔を覗かせ哀愁漂う音色に合わせて、静かに踊り
練り歩く姿は、とても美しく見る者皆
おわらの世界に引き込まれます。
まさしく幻想的で優美な世界。
その地域の人々の行事として古くから行われ、
あまり観光客向けに派手派手しい趣向に
変化していないところが、
また風情を感じ、秋の夜に相応しく感じられます。
9月1日 長月(ながつき)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日から9月となりました。
9月を長月ともいい、
夜が長くなるから、夜長月が縮まって長月と
なったという説があるように
秋の夜長、月を眺め楽しむには最適の
季節が訪れました。
茶の湯の世界では
5月1日にご紹介しました通り、
風炉の灰形が変化する時です。
初風炉の季節に真だった灰形が盛夏に行の灰形となって、
今月から10月までが草となり
流線型の、すっきりとした灰形に形をかえます。
夏を彩ってきた草花も徐々に終わりを告げて行く頃
薄や吾亦紅(われもこう)、薊(あざみ)など
秋風を感じる草花がいっそう床の間に映えます。
8月 31日 やさいの日
ご機嫌よろしゅうございます。
きょうは8月31日、やさいの日です。
16世紀に来日したイエズス会士たちの報告には
当時の日本の食事について
―本来甚だ肥沃にして僅かに耕作することにより、
多量の米を得、即ち当国の主要なる食料なり。
又、麦、粟、大麦、カイコ豆、其の他豆類数種、
野菜は蕪、大根、茄子、萵苣(ちしゃ)のみ、
又、果物は梨、石榴、栗等あれども甚だ少なし。
肉は少なく、全国民は肉よりも魚類を好み、
其の量多く、又、甚だ美味にして佳食なり。
(永禄9年ビレラ書簡)
とあり、大根、茄子などを食べていたことがわかります。
それらももとは外来種で、日本原産の野菜と考えられるのは
フキ・ミツバ・ウド・ワサビ・アシタバ・セリなど。
白菜やトマト、玉ねぎのような
現在私たちが毎日のようにいただく野菜のほとんどは
江戸時代~明治以後に日本に入ってきたもの
ということに驚きます。
8月 30日 白花秋海棠(しろばなしゅうかいどう)
ご機嫌よろしゅうございます。
そろそろ秋の気配もかんじられるこの頃
籠に入れる茶花も徐々に秋の風情を帯びてきます。
秋海棠というと一般的には淡紅色の花ですが
当時、信濃町にあった宗家の裏庭には
白花の秋海棠が咲いていました。
この秋海棠は八世宗中公が江戸屋敷で愛玩していた
もので、その種子を蒔いて繁殖させたものです。
淡紅色の秋海棠よりも葉の色が濃く、また葉裏の
葉脈が濃紅色で色映りが大変美しく、
また背丈も高いのが特徴です。
宗中公以来百年以上の歴史を持つ花で
近くに紅色の秋海棠が植わっているとその
色に染まってしまう性質があるため
白花は大変貴重です。
ご先代はこの白花秋海棠の写生をされています。
8月 29日 遠州公の白
ご機嫌よろしゅうございます。
8月8日に、遠州公が抹茶の製法を
「白茶」に戻したお話をいたしました。
そして織部の緑
これには茶人の好みが反映されています。
それぞれの茶人の好みをシンプルに色で表すとするなら
利休の「黒」
織部の「緑」
遠州の「白」
とお家元は表現しています。
全てを包有する、他の存在を許さない「黒」
己の感性を先鋭に表した「緑」
「黒」も「緑」をも受け入れることのできる「白」
利休、織部の茶は己の精神.主観性を追求するもの。
それに対して
遠州はその日のお客様に合わせて
その好み・趣向を考え、道具の取り合わせを自在に
変えるなど相手の心を映した茶でした。
オリンピック招致で話題となった
「おもてなし」の日本の心ですが、
茶の心、とりわけ
この遠州公の「白」の好みが生きているような気がいたします。
8月28日 道元禅師
ご機嫌よろしゅうございます。
茶道は禅の精神と深い関係がありますが
今日は曹洞宗の開祖道元禅師のご命日にあたります。
若くして両親を失い、出家して後、中国に渡り
修行を積んだ道元禅師は、将軍の帰依を受けながらも
権力に染まることを拒み、
福井の永平寺でひたすら仏道に励まれます。
鎌倉時代に定着していった禅宗の規律は
茶法にも大きな影響を与えていきます。
さて道元禅師と共に中国に渡り、
帰国した陶工がいます。
この人物が加藤四郎左衛門景正(かとうしろうざえもんかげまさ)
瀬戸焼の祖といわれています。
茶入はもともと中国の小壷などが転用されて、
茶道具となりましたが、瀬戸焼が生まれ、
日本で最初から茶入として焼かれるようになりました。
初代の作を古瀬戸と呼び、名前を略して藤四郎と
いわれることもあります。
8月 27日 虫聞き(むしきき)
夏の夜
虫の音が聞こえると、
暑さも少し和らぐような気がします。
東京向島の百花園では例年「虫ききの会」
が開かれます。
虫ききの会の始まりは、
天保二年(1831)
仏教の不殺生の思想に基づいて、
捕らえられた生き物を、山野や沼地に放って
供養する仏教の儀式「放生会(ほうじょうえ)」
が原型。
向島百花園では、天保二年に没した
初代佐原鞠塢(さはらきくう)を追善するために、
縁者が「放生会」を行ったことが始まりといわれ
明治には来園者が虫の音を楽しむという企画ができ
今日の夕涼みをしながら楽しむ夏の風物詩
「虫ききの会」になったそうです。
江戸後期、仙台出身の骨董商だった
佐原鞠塢(さはら きくう)が開いたのが
植物庭園「向島 百花園」です。
太田南畝や酒井抱一などの文化人が
佐原鞠塢のもとに集いました。
8月 26日 鶏卵素麺
ご機嫌よろしゅうございます。
夏になると食べたくなる素麺。
今日はその素麺の姿をした甘いお菓子
「鶏卵素麺」をご紹介したいと思います。
「鶏卵素麺」はその名の通り氷砂糖と卵黄で、
素麺状つくられたお菓子で、安土桃山時代にポルトガルから
伝来したといわれています。
江戸時代に出島で製法を学んだ松屋利右衛門が
1673年に博多に戻って販売を開始し、
延宝年間に福岡藩三代目藩主の黒田光之に鶏卵素麺を献上し
御用菓子商となったといわれています。
森八の「長生殿」、大和屋の「越の雪」に並び
日本三大銘菓の一つに挙げられることもあります。
(鶏卵素麺のかわりに「山川」が数えられることもあります。)
卵のコクと甘み、しゃりっとした食感が独特で
一度食べるともう一つ食べたくなる銘菓です。
お茶席でもいただきやすいよう、
最近では素麺を昆布で束ねた形のものも
販売されているようです。