10月5日 龍光院(りょうこういん)
ご機嫌よろしゅうございます。
日曜日になりましたので
軍師 官兵衛の時代のお話を。
官兵衛改め如水の子である黒田長政は
初代 黒田藩主となり、遠州公との深い縁もあります。
慶長九年(1604)三月二十日如水(官兵衛)は
京都伏見藩邸で亡くなります。
59歳でした。
1606年、如水の子・黒田長政が、三回忌のため
父の墓を塔頭・玉林院南に建てたました。
院名は、如水の院号「龍光院殿如水圓清大居士」から
龍光院とされました。
勧請開祖は春屋宗園、開山は江月宗玩。
1608年に春屋宗園の隠居所となり
1612年に遠州公が自らの菩提所として、
江月宗玩を開祖に、龍光院内に
「孤篷庵(こほうあん)」を建立しました。
1628年以降、現在の茶室「密庵」が建てられたと
されています。
毎年10月1日には開山忌法要が営なわれて、
宗実御家元もお参りされています。
10月 4日 遠州公の愛した茶入
「正木(まさき)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州蔵帳所載の茶入「正木」をご紹介します。
この茶入は釉薬のかかり具合が片身かわりとなって
おり、その景色の美しさを正木のかづらの
紅葉に見立てて
深山には霰ふるらし
外山なる正木のかづら色つきにけり
古今集
神無月時雨降るらし
佐保山の正木のかづら色まさりゆく
新古今和歌集
このともに同じような歌意を持つ二首の和歌から遠州公がつけた銘
といわれています。
遠州公所持の後、土屋相模守、細川越中守等の手を経て
現在は根津美術館に収蔵されています。
10月 3日 三条西実隆(さんじょうにしさねたか)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は三条西実隆についてのお話を。
享徳4年(1455)4月25日生まれ。
飛鳥井雅親(あすかいまさちか)に和歌をまなび
四十七歳で宗祇(そうぎ)から古今伝授をうけます。
一条兼良(かねよし)からは古典学を学び、
和漢の学に通じた当時最高の権威・文化人
として知られました。
茶の湯においては、利休の師匠であり連歌師でもある武野紹鴎が
実隆に和歌を学び、「詠歌大概序」の講義を受け
茶の湯の極意を悟ったと言われています。
また聞香にも優れ、後柏原天皇から
「御香所預(ごこうしょあずかり)」にも任じられました。
御家流香道の祖とも言われます。
天文六年(1537)の10月3日 83歳でなくなります。
最後に実隆の和歌を一首ご紹介します。
花も木もみどりに霞む庭の面(も)に
むらむら白き有明の月 「雪玉集」
10月 2日 名残り(なごり)
ご機嫌よろしゅうございます。
10月に入り、近年の猛暑もようやく
影を潜めるころとなる頃となりました。
10月も半ばともなると、茶の湯の世界は
名残りと呼ばれる時季となり
あとわずかとなった風炉の時期を名残り惜しむ
夏、床の間を彩ってきた草花に名残りを惜しむ
名残りには様々な意味がありますが、本来の
茶の湯の名残りというのは、そのような自然の季節感
ではなく、前年の口切り以来使用していた茶壷の中の茶が残り少なくなった
ということからくる意味です。
五月、八十八夜の頃に新茶が摘まれ、その茶葉を
そのまま乾燥させ、袋に入れて茶壷に詰めます。
これを一定の温度で保存し、十一月に(旧暦の10月)初めて壷の口が
開かれ、その年の新茶が飲まれることになります。
そしていよいよ残りわずかとなった茶葉を名残り惜しみながら季節のうつろいを感じる
茶の湯ならではの言葉といえるのです。
10月 1日 神無月(かんなづき)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日から十月。
十月の異名を「神無月」といいますが、
よく言われる説として、
八百万(やおよろず)の神々が
話し合いのため出雲の国に集まる月。
そのため各地では神様が留守になるので
「神無月」といいますが、神様の集まる出雲では
「神在月」と呼ぶといわれています。
これは出雲の御師が広めた説とする考えもあり、
「神嘗祭(かんなめづき)」
「神祭月(かみまつりづき)」
また十月は雷のならない月ということで
「雷なし月」からくるとする説もあります。
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9月 30日 芋茎(ずいき)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日はこの時期が旬の芋茎のお話を
芋が収穫される秋、その芋の茎である
芋茎も様々な調理法で頂きます。
この芋茎、平安時代には「いもし」と呼ばれていた
ようですが、「ずいき」と呼ばれるようになったのは
夢窓疎石の歌に由来するという説があります。
いもの葉に置く白露のたまらぬは
これや随喜の涙なるらん
随喜とは仏語で大いに喜ぶなどの意味があります。
芋の葉の上に溜まった雨露はしみ込まず、
大きな雫となって葉のふちから滴り落ちます。
これを神仏の恵みを喜ぶ感激の涙と捉えた歌です。
京都では「ずいき祭」とよばれる有名な北野天満宮の
お祭りが10月1日から行われます。
ずいきやその他の野菜で飾ったお神輿が加わり
その収穫に感謝します。
9月 29日 天の原(あまのはら)の歌
天の原ふりさけ見れば春日なる
三笠の山に出でし月かも
ご機嫌よろしゅうございます。
冒頭の和歌は、阿倍仲麻呂が遣唐使として渡った先で、
夜空に光る月を眺め、故郷奈良の三笠山にでていた
名月を想い出し詠んだ歌です。
この歌は茶の湯においても大変重要な歌です。
床の間には中国高僧の墨跡を掛けるが主流
であった当時において、武野紹鴎はその歌意が
気宇壮大で、墨跡にも相当するとして、
初めて床の間に、掛けられたとされる和歌です。
秀吉も、和歌の掛け物を初めて拝見し、利休に
その理由を問うと、
この歌の心は月一つで、世界国土を兼ねて詠んだもので
あるので、大燈国師、虚堂祖師の心にも
劣らないものであるので
と、秀吉に言上したと言われています。
9月28日 如水と家康のエピソード
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は日曜日。
官兵衛の時代のお話を。
如水は慶長五年(1600)の関ヶ原の役以後、
豊前に引退し、参禅の師を大徳寺の
春屋宗園に求めた頃から茶の湯を勢力的に
始めたようです。
家康とのエピソードとして面白いのは
黒田家に伝わる「南条」の茶壺です。
慶長六年(1601)の五月
家康が伏見城で宴会を催しました。
関ヶ原の役で活躍した大名が招かれ、その中に
如水の姿もありました。
ここに名物の茶壺が数個並べられ
家康は如水に、冗談半分に
「この中で他人の手を借りずに自分で持って帰れる
ものがあれば、どれなりとも差し上げよう」
と語りました。
すると如水はすっと立ち上がって
一番大きい「南条」の茶壺を自らの手で持ち帰った
ので、家康も如水の豪放さに驚嘆した
といわれています。
9月 27日 名物道具を拝見するには?
ご機嫌よろしゅうございます。
昨日は鷺の絵をご紹介しました。
そして遠州公が若干16歳でこの絵をみることが
できたこともお話ししました。
当時は美術館も展覧会もありません。
観たいと思う道具があったら、
その道具を持つ人の茶会に招待されなければ
みることは出来ないのです。
そして所有者も
この人なら見せてもいいなと思う人しか
呼ばないわけで、客には相応の知識と教養が必要
でした。
つまり、名物道具を拝見出来たということは
茶人として認められたという格を示すことにもなりました。
お金を出せば、いつでも博物館で名物道具を
拝見できる今とは違い
当時の茶人は常に真剣な気持ちで
名物道具と対峙していたのでしょう。
9月 26日 鷺(さぎ)の絵
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は鷺の絵のお話をいたします。
鷺の絵は、松屋三名物の一つです。
奈良の松屋は漆屋を称した塗り師の家で
その茶を村田珠光に学びました。
鷺の絵は、その侘びた珠光表具のすばらしさから、
利休が「数寄の極意」としたこともあって
名だたる茶人はこぞってこの絵を松屋に拝見にいきました。
遠州公の師、古田織部
は利休に「数寄の極意」をたずねたところ
利休は松屋の鷺の絵を挙げられ
翌日、織部は直ちに馬で奈良に向かい
その鷺の絵を拝見したというエピソードもあります。
遠州公の父、新介正次は当時松屋の茶会に赴いたり、
自宅の茶会に招くなど親交を深めていました。
遠州公は父に連れられて、文禄3年2月3日、16歳の時に
この絵を拝見しています。
残念ながら現在は焼失し、見ることはできません。