遠州好み「几帳面取り」

2014-11-27 UP

11月 27日 遠州好み「几帳面取り」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州好みのお話しを。

遠州公が好んで作った道具には瀟洒で繊細な
形のものが多いですが、その印象を形作る
ものの一つに「几帳面取り」があります。

「几帳面」とは
器具の細工で、角をとって半円形のきざみをいれたもの。
几帳の柱に使ったことからいう。(「角川国語辞典」)

方形の角を撫で角に削り、その両側に段をつけたもの。
もと几帳の柱に多く用いたから。(「広辞苑」)

几帳面の言葉もここから由来するものですが、
遠州公の好んだ道具、特に炉用の棚などに
はこの「几帳面取り」の細工が多く見られます。
指で触らないとわからないくらいの繊細なものですが、
これを施すことによって、丸みがでて優しい
印象になるのです。

遠州好みの棚を見る機会がありましたら
柱を是非じっくりご覧になってみてください。

遠州流の柄杓

2014-11-26 UP

11月 26日 遠州流の柄杓

ご機嫌よろしゅうございます。

炉を開いてそろそろ一ヶ月。
お茶のお稽古をなさる方は、風炉のお点法から
炉の点法にようやくなれた頃でしょうか。

炉の季節になると、釜や水指、色々なものが
風炉に比べてやや大振りになります。
柄杓は・・・

遠州流の柄杓は他のお流儀で使用されているもの
より、大きく、一杯でおよそ5人分の濃茶を
点てることができます。

そしてお茶を練っている途中
その加減をみてお湯を加えるお流儀もありますが
遠州流では、お茶の香りをなるべく損なわない
ようにするため、加え柄杓をしないのです。

近衛信尹

2014-11-25 UP

11月 25日 近衛信尹

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は江戸初期の公家・近衛信尹について
ご紹介したいと思います。

某人気コミックスで、豊徳合体を目指す織部が、
禁中で反徳川に燃える旗頭、前関白・近衛信尹を
「カリ」(今のカレー)でもてなすという
シーンが描かれていました。
この当時「カリ」が既にあったのかは謎ですが…

近衛信尹は関白や左大臣など歴任した重臣で、
後水尾天皇の生母の兄にあたります。

幼少時は武家との交流が深く、また織田信長に
可愛がられたこともあり公家社会に馴染めず
苦しみました。

朝鮮出兵の際、自らも朝鮮に向かおうとし
後陽成天皇の怒りを買い、薩摩に配流されるなど
波乱の多い人生だったようです。

若き日の松花堂昭乗が信尹に仕えていた時期もあります。
能書家として知られ、一派を形成し、近衞流、
または三藐院流と称されます。
本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに
「寛永の三筆」に数えられる人物です。

慶長19年(1614)11月25日に亡くなります。

椿

2014-11-24 UP

11月 24日 椿

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は旧暦の亥月亥日です。
風炉から炉の季節に変わり、床を彩る花も
草花から椿へ。

特にこの口切の季節には、白玉椿とよばれる
白くふっくらとした椿を入れることが
慣例となっています。
遠州公の時代にも白玉椿か、薄い色の
椿を使用した例が残っています。

この立派な椿を入れる花入も
やはり格調高い古銅や青磁などを用いて
茶の正月といわれる炉開きに清々しさを
与えます。

また、炭斗で使われる瓢の用意がない時などは
その代わりに、瓢の花入を用いることもあり、
遠州公が作った瓢の掛け花入も残っています。

勤労感謝の日

2014-11-23 UP

11月 23日 勤労感謝の日

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は11月23日 勤労感謝の日
祝日です。

勤労感謝の日は、
「勤労をたっとび、生産を祝い、
国民たがいに感謝しあう」

という精神のもと1948年に制定されました。
これは戦前の「新嘗祭」の日を、そのまま
「勤労感謝の日」に改めたものと言われています。

「新嘗祭」は、古くから行われてきた重要な祭儀で
天皇が、その年にとれた新穀を天神地祇に供え、
農作物の収穫に感謝するとともに、
自らも初めて召し上がります。

同時に全国の農山漁村や、それぞれの地方で
神社に新穀を捧げ、その年の収穫を
神々に感謝し、収穫を喜び合う
全国民的な祭典でした。

そういう意味をもう一度考えて
今日は勤労、生産を祝うと共に、
毎日いただく米や野菜、食べ物への
感謝の気持ちも持ちたいと思います。

小雪(しょうせつ)

2014-11-22 UP

11月 22日 小雪(しょうせつ)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は二十四節気の「小雪」に当たります。

立冬から数えて15日目頃にあたり、
日差しもしだいに冬らしくなり、
鮮やかに染まった紅葉も
散り始める頃です。
逆に銀杏や柑橘類は黄色く色づき始めます。

暦便覧には
冷ゆるがゆえに、雨も雪となりてくだるがゆえなり

と記されています。
暦の上では、雪も降り始め本格的な冬を迎える頃、
東京ではこの時期雪をみることはなかなかありませんが、
北の地域では初雪の便りが聞声始めていますね。

一休宗純

2014-11-21 UP

11月 21日 一休宗純

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は頓知でおなじみの一休さんについての
お話しをしたいと思います。

ボサボサ頭に、ボーボーの髭
一休宗純は後小松天皇の御落胤とも言われていますが、
室町時代、風狂の精神の下で、形骸化した政治や仏教を
風刺するなど、形式にとらわれない行動と
人間らしい生き方が庶民の評判となります。

侘び茶の創始・村田珠光(じゅこう)も一休の門下になりました。
修行を行う中、「仏法も茶の湯のなかにあり」
という一休の教えを受け「茶禅一味」(茶も禅も同じ)
の悟りに達しました。

茶の湯だけではなく、花や連歌などをする多くの
文化人が一休の下に集い、その影響を受けたと
言われています。

一休が臨終の際に、弟子に
「これから先、どうしようもないくらい
困難なことが起きたら開けなさい。」
と、手紙を渡しました。

いよいよその時、弟子が手紙を開けると
中に書かれていた言葉は
「心配するな。大丈夫。 なんとかなる。」
だったとか。

文明十三年(1481)十一月二十一日の今日
八十八歳で亡くなります。

片桐石州

2014-11-20 UP

11月 20日 片桐石州

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は片桐石州についてお話しします。

天正十一年(1583)生まれ。賤ヶ岳の七本槍の
一人として有名な片桐且元の弟だった貞隆の子
として生まれます。
江戸時代に京都知恩院などの普請奉行を務める間、
京で遠州公や宗旦、金森宗和、松花堂などとの交流
を深め、茶の湯の実力が磨かれていったようです。

若き石州はそれら大先達にその器量を試される
時期であったようで、遠州公や宗旦の茶会に参会し、
石州の茶の師であった、桑山左近の教え以上の話を
ふられたりしていたという話が残っています。
(「松屋会記」「元伯宗旦文書」)   →要確認

後に四代将軍家綱の所望で、点茶の式を行い、
徳川家秘蔵の名物道具の鑑定をする御道具奉行になります。
「石州三百か条」は後の柳営茶道の規範にもなりました。

四代目の将軍茶道指南役ともなり、
遠州公の後継者的役割を果たしました。

延宝元年(1673)六十九歳で亡くなります。

茶壺の中

2014-11-19 UP

11月 19日  茶壺の中

ご機嫌よろしゅうございます。

十一月も中旬となり、挽きたての新しい抹茶が
各茶家でも楽しまれていることでしょう。
自分で石臼で挽いたお茶は、手間はかかりますが
その香りも色も格別です。

遠州公も、水屋常住の大きな石臼とは別に、
手元でちょっとお茶を頂きたい時に、少量
挽ける「小車」という銘のついたコンパクトな茶臼を
持って挽きたてのお茶を楽まれていたようです。

さてこの茶葉が詰められてくる白い袋は
なんという名称かご存知でしょうか?

八十八夜につまれたお茶は
濃茶にされるごく良質の葉茶を、
半袋(はんたい)と呼ばれる袋に、10匁(もんめ)(37.5g)ずつ
詰めていきます。
この半袋、半分の袋と書きますが、
これはもともと20匁が一つであったのですが
お茶が大変貴重で高価だった当時は、
20匁を求めるにはなかなか手が出ないので、
その半分の10匁を袋に詰めて、「半袋」
としたのだそうです。

戸川宗積先生

2014-11-18 UP

11月 18日 戸川宗積先生

ご機嫌よろしゅうございます。
今日はご先代紅心宗慶宗匠の御実弟
戸川宗積先生のご命日です。

道守り 其の身心を空となし
力つくして 今日ぞ散りゆく

ご先代が宗積先生の追悼の文で詠まれた歌です。

紅心宗匠の生死もわからない戦時中、勤めていた
仕事を辞して遠州流茶道の組織作りに力を注ぎました。
そして「茶道遠州会(現・遠州茶道連盟)」の下地を
完成させ、いつ紅心宗匠が戻られてもいいような
形まで作り上げたのです。

紅心宗匠がシベリア抑留から帰国し、昭和25年3月19日に、
音羽護国寺にて「宗慶」襲名披露の大茶会が終わった
夜の祝膳の時、紅心宗匠の御実弟・宗積先生はご両親、
ご姉弟に
「本日から兄弟の縁を切り、
己が命ある限り、遠州流茶道発展向上の
為に全力を尽くします」
と誓われます。
以後、その言葉通り、その身を砕くように
紅心宗匠を、そして遠州茶道宗家を
影となり日向となり支えてこられました。

大変面倒見がよく、修行中だった職方や道具屋さんなどに
よく食事をさせ、共に酒を飲み、そして親身に指導してくださった
と、宗積先生を知る方は、当時を懐かしそうに思い出して
お話しされます。

己の信念を貫き、また遠州流の発展のため、
全力を注がれた、先生のお人柄が偲ばれます。