大雪(だいせつ)

2014-12-7 UP

12月 7日 大雪(だいせつ)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は24節気の大雪にあたります。

その文字通り、雪が激しく降り始める頃を
指します。
『暦便覧』には

雪いよいよ降り重ねる折からなれば也
とあります。

この時期東京で雪がつもることはなかなか
ありませんが、寒風が吹きすさび
部屋の温もりが恋しくなります。

この頃、日本海の荒波の下では、
寒鰤(かんぶり)がその体に脂肪を蓄え、
美味しさを増していきます。

遠州公の愛した茶入 「飛鳥川(あすかがわ)」

2014-12-6 UP

12月 6日 遠州公の愛した茶入
「飛鳥川(あすかがわ)」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州蔵帳所載の茶入「飛鳥川」を
ご紹介します。

昨日といい今日と暮らして飛鳥川
流れて早き月日なりけり         古今和歌集

の歌からつけられた茶入「飛鳥川」。
遠州公が泉州堺において初めてこの茶入を
見たとき、まだ新しい茶入に見え、
それほどの感動はなかったのですが、
後年再び伏見で見たところ
すっかりとてなれて、思いの他
古色を帯びていたところから、
この歌から銘をつけたと言われています。

寛永十五年の十月に江月和尚を招いて使用したの
をはじめとして、およそ六十九回の使用を
確認でき、いかにこの茶入を遠州公が
愛蔵していたかがわかります。

越の雪(こしのゆき)

2014-12-5 UP

12月5日 越の雪(こしのゆき)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日はお菓子のお話を。

日本三大銘菓とよばれるものには
「長生殿」、「山川」、
(これに鶏卵素麺がはいることも)
そして今日ご紹介する「越の雪」
があります。

まるで雪が降り積もってできたような風合い
サイコロのような形のその白く可愛らしいお菓子は
一つ口に入れると、ほろっと溶けて
優しい甘みが広がります。

安永7年(1778年)に長岡藩9代藩主だった牧野忠精公が
病に伏されていた際、 作られたのが「越の雪」の始まりです。

これにより、忠精公から『越乃雪』の名をいただき、
文化6年(1809年)には藩の贈り物用菓子の御用達
となりました。

藩主や藩士の参勤交代の折、贈答品として大変活躍した
ようです。

遠州椿

2014-12-4 UP

12月 4日  遠州椿

ご機嫌よろしゅうございます。

遠州公は茶湯や作事、様々な分野で活躍し、
当時の文化に影響を与えますが、

その影響は着物の文様にも残っています。
着物の文様に「遠州椿」というものがあります。

もともと連歌師が好んで栽培したことや、
江戸時代に入って徳川秀忠や大名が好んで栽培したこと
から、「百椿図」と呼ばれる椿の姿が描かれた本が刊行されたり、
庶民の間でも椿が流行し、様々な品種がつくられ、
より鑑賞的な要素が加わりました。

遠州公も椿を愛好していました。
遠州公が椿を図案化し、
好んで使用した文様であったということから、
その名がついたとされています。

お歳暮(せいぼ

2014-12-3 UP

12月 3日 お歳暮(せいぼ)

ご機嫌よろしゅうございます。

今年も残りあとわずか、ともなると
お世話になった方々へのお歳暮を
お送りしなくてはと準備される方も
多いかと思います。

お歳暮は
もとは新年に来訪する歳神様や祖霊への
お供え物から発生し、のちにその意味合いが
お世話になった方への年末の贈答儀礼として
日本に定着していったといわれています。

新巻鮭が定番であった品物も、
現在では洗剤や菓子等やちょっと珍しい商品まで
様々な選択肢が増えました。

関東では12月に入ってから、
関西では「事始め」以降に贈ることが
多かったようですが、その地域差も
今ではだいぶ縮まっているように感じられます。

一年間を振り返り、贈る相手のことを考えてあれこれと
品物を選ぶのも日本らしい師走の風景です。

細川三斎(ほそかわさんさい)

2014-12-2 UP

12月 2日 細川三斎(ほそかわさんさい)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は利休七哲に一人に数えられる
細川三斎についてご紹介します。

永禄6年(1563)に細川幽斎のことして生まれます。
この幽斎は武人としてだけでなく教養も一流の
文化人で、三斎も大いに影響を受けたことでしょう。

若い頃から千利休に師事し、天正19年(1591)、
秀吉の勘気に触れ、堺へ蟄居の身となった利休を、
古田織部と三斎の二人だけは、
淀の船着場で利休を見送ります。
茶入、茶杓、花入など利休遺品の多くが
細川家に伝わり、細川家由来の道具とともに
目白の永青文庫に収蔵されています。

独創的な茶を行った織部に対し、
三斎の茶は利休の茶を踏襲した特徴のない
茶ともいわれますが、
「細川茶湯之書」の中で、
茶湯は師の茶を真似て一心不乱に修練すれば
数寄者とも評価されるのだ
と三斎独自の理論を語っています。

師走

2014-12-1 UP

12月1日 師走

ご機嫌よろしゅうございます。
今日から12月。

師走という言葉はよく知られますように
「師」が走るほど忙しい月だからと言われ
この「師」が、「先生」とも「お坊さん」とも
様々な解釈があるようです。

また極月(ごくげつ・ごくつき)大呂(たいりょ)
臘月(ろうげつ)など多くの異称がありよく表しているのが、
極月といえます。

遠州流の十二月、直門では納めの会などが行われ、
また週末には恒例の茶筅供養などの茶会が
催されます。一日一日がやはり、走り過ぎて行く
かのような慌ただしさですが、そんな中でも
毎年欠かせないのが、宗家道場、茶室の大掃除です。
天井からはたきをかけ、埃を落とし、
天井の梁から柱の一本一本、畳の隅から隅まで
丁寧に布で磨いていきます。
窓も曇りなきよう綺麗に拭き取られ、
今年の塵埃を払って、新しい年を迎える準備に
取り掛かります。

この月は、至る所の掃除をしながら
今年という一年間を振り返る、
忙しい中にも静かな時が流れるひと月です。

南坊録

2014-11-30 UP

11月 30日 南坊録

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は黒田藩立花実山の編著といわれている
「南坊録」のお話しをしたいと思います。
月  日に立花 実山についてお話しをしました。

黒田忠之の江戸参勤の折、共をしていた実山が
利休の言葉を伝える伝書なるものを見せられ、
その後実山が書き写したとされる「南坊録」

以前は利休の教えを伝える第一の書とされていましたが、
記載年号の間違いや、南坊という禅僧の存在の確証がないこと
などから、実山の作った偽書との疑いがもたれていました。

書中あるエピソードのなかには、利休が実際に話したこともあると思われますが
利休没後100年に実山が、乱れた茶の湯の世界を
憂い、実山の思い描く利休像が投影されて
いるとも考えられます。
今後の研究が待たれるところです。

松岡正剛氏の千夜千冊にも「南坊録」について
詳しく書かれています。
よろしければこちらもご覧下さい。

清水道閑(しみずどうかん)

2014-11-29 UP

11月 29日 清水道閑(しみずどうかん)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は安土桃山・江戸初期の茶人である
清水道閑についてご紹介します。

1579年生まれ、遠州公と同じ年になります。
茶湯を遠州公とともに古田織部に学び、その後も
遠州公に茶を学ぶなど深い親交がありました。
その縁から遠州公の推薦で仙台藩に招聘され、
伊達政宗に五百石をもって茶頭に召し抱えられます。

出仕に際して遠州公が、「猿若」という銘の
茶入を贈ったことは有名です。
・  ・
とどめ さる わか れよ君か袖のうちに
我たましひを入れてこそやれ

猿若と呼ばれていた道閑にその言葉を織り込んだ歌を
添えています。

後に藩命で二代目道閑が石州に入門し、
その後石州流清水派が創立します。

慶安元年(1648)の11月29日69才で亡くなります。

遠州流の茶筅

2014-11-28 UP

11月 28日 遠州流の茶筅

ご機嫌よろしゅうございます。

一昨日遠州流の柄杓のお話しを致しました。
今日は茶筅のお話しを。

ほとんどのお道具は、季節が変わると、
それに合わせて大振りのもの小ぶりのものに
改めますが、茶筅は大きさを変える必要なく
通年使える茶道具です。

そして他の道具のような華やかさはありませんが
代用のきかない、重要な茶道具です。
煤竹・白竹など茶人や流儀の好みによって、様々な
色合いや穂先の形の茶筅があります。

遠州流の茶筅は白竹を使い、穂先の根元をかがる黒い糸の
結び目を見ると穂の内側で結ばれているのがわかります。
これは大変難しい技術ですが大きな特徴となっています。
ほとんどのお流儀ではこの結び目が表にでているので
遠州流の茶筅との見分け方はここをみれば
すぐわかります。

遠州公を流祖とする大名茶ならではの
手がこんだ茶筅です。