12月28日 (月)亡羊(ぼうよう)

2015-12-28 UP

12月28日 (月)亡羊(ぼうよう)

ご機嫌よろしゅうございます。

今年も残すところあと4日となりました。
今年の干支は羊でした。
その羊に関する故事で、こんなものがあります。

中国戦国時代、思想家の楊朱の隣家から
羊が一匹逃げました。大勢の者が追いかけますが、
道がいくつも分かれていたために、
取り逃がしてしまいました。
それを聞いた楊朱は、
「学問の道もいくつもに分かれていて、
真の道がわからなくなる」と嘆いたといいます。

このことから
「多岐亡羊」
(岐き多くして羊を亡う)
という言葉が生まれ、
学問の道があまりに幅広いために、
容易に真理をつかむことができないことのたとえ
また、あれかこれかと思案に暮れることのたとえ
に使われるようになりました。

遠州公と親交のあった江戸初期の儒学者
三宅亡羊は名を島といい、寄斎と号しましたが
晩年にこの亡羊の号を用いました。

12月 25日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-12-25 UP

12月 25日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「辞世の句」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日で遠州公所縁の地にちなんだお話も
最後となりました。
今日は遠州公の辞世の句をご紹介したいと
思います。

遠州公は六十九歳の二月六日、
伏見奉行屋敷で亡くなりました。

きのふといひ けふとくらして なすことも

なき身のゆめの さむるあけほの

今までの人生と遣り残したこと
その全ての欲を捨て去った時に
人間は人間に取って一番大切なものが
何であるかと言うことを知るのだ。

今までの人生と残した仕事さえ、
亡くなって逝く自分には
曙の中ではかなく覚めてゆく
夢のような気がする.

12月 23日(水)遠州流茶道の点法

2015-12-23 UP

12月 23日(水)遠州流茶道の点法
「薄茶・後礼(こうれい)」

ご機嫌よろしゅうございます。
先週は濃茶までお話しました。

今日はお茶事の最後、薄茶についてお話します。
濃茶をいただいた後は席を広間に移して
薄茶をいただきます。
歳暮に広間にうつらず、小間のまま続き薄をすることも
ありますが、通常は遠州流茶道では場所を変えることで、
それまでの雰囲気をガラッと変え、広間では
和やかで気楽な空気を楽しみます。
遠州公は濃茶の後に鎖の間を通って広間に移動し、
精神性を重んじた茶から草創期の書院の茶、
更に古典的な王朝文化を感じられる茶へと、
さながら茶の湯の時代絵巻のように楽しむ空間を
創り上げました。

広間の席に移りましたら、これまでの労を労い、
ご亭主にも薄茶をおすすめして皆で楽しみます。
水菓子などもいただき、芳名帳などがあればここで
記入し、全体で約4時間程度のお茶事もこれで終了です。

お茶事の翌日に再び亭主宅を訪問し
客は後礼といって
茶事のお礼をします。
亭主に感謝の意を伝えましよう。

12月21日(月)喜峰(きほう)

2015-12-21 UP

12月21日(月)喜峰(きほう)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は二世大膳宗慶の道号「喜逢」
についてご紹介します。

大徳寺江月和尚に参禅していた大膳宗慶が
大灯国師の第三百六回の正当忌に当たる
寛永十九年(1642)十二月二十二日
江月和尚から、その忌日に逢うを喜ぶ
という意味で「喜逢」という道号が授与されました。

そして大灯国師の六百年の大遠忌には
11世の宗明宗匠がお献茶を
六百五十年には12世宗慶宗匠が
そして、昭和五十八年には13世となる宗実
家元が献茶をなされ、
三代に渡って大灯国師の尊い教えに献茶を
もって感謝の意を捧げられ、
二百六十年の時を越えて、逢うに喜ぶ日を
迎えられたのでした。

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12月18日(金)遠州公の墓

2015-12-18 UP

12月18日(金)遠州公の墓

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公最晩年のご紹介をいたします。

正保四年(1647)六十九歳
二月の六日に伏見奉行屋敷で亡くなります。
この五日前の二月一日には、伏見の茶亭で
茶会を催したと伝えられており、
その命の尽きるまで、茶の湯の生涯でした。

遠州公の墓は
京都市北区の大徳寺孤篷庵、 東京の練馬区の広徳寺,
滋賀県浅井町の孤篷庵にあります。

京都のお墓は先祖が一人づつ個別のお墓に
祀られており
東京のお墓は宗中公以降の十代目以降は
同じお墓に、
近江孤篷庵は七代目までは別々に
祀られているとのことです。

12月 16日(水)遠州流茶道の点法

2015-12-16 UP

12月 16日(水)遠州流茶道の点法
「中立・濃茶」

ご機嫌よろしゅうございます。

炭点法・会席が終わると一度席を改める
中立ちです。
この間に辺りが暗くなっていれば石灯籠に
灯りが燈ります。裏方はこの石灯籠の中に
火をいれ、障子紙を水貼りします。

白い紙の奥にうつる柔らかい光は、暗がりの
露地の景色をより一層美しく引き立ててくれます。

銅鑼の音が聞こえたらいよいよ席入りです。
濃茶では、客は静かにお茶が点つのを待ちます。
通常の稽古ではお菓子をいただいてお茶を飲みますが、
本来は会席の最後にお菓子をいただき、
中立ちで口も清めるので、濃茶の席では
お茶本来の甘み・苦味をじっくり味わいます。

12月 14日(月)王服茶

2015-12-14 UP

12月 14日(月)王服茶
ご機嫌よろしゅうございます。

12月13日は事始め
いよいよ新しい年を迎える準備を
始める時期となりました。
かつて京都の空也堂では、
事始めから大晦日まで、
僧が手製の茶筅を売り歩く風習がありました。

この茶筅でお茶を点てると無病息災の
御利益があるといわれ、お正月に頂くのが
慣わしでした。

村上天皇の時代、都に疫病が流行しました。
空也上人は観音菩薩に疫病調伏を祈願し、
茶筅で点てた茶を供えて民衆に分け与えました。
この空也上人については11月16日にご紹介しました。
茶を服した者はたちまち平癒したといいます。
これを知った天皇が、正月三ヶ日に茶を
召し上がるようになったそうです。
その風習は「王服茶」と呼ばれ、
この故事に因み、空也堂の僧侶は師走になると、
正月の王服茶を点てるための茶筅を売り歩いたのでした。

12月 11日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-12-11 UP

12月 11日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「伏見へ帰る」

ご機嫌よろしゅうございます。

正保二年(1645)遠州公六十七歳
江戸四年詰めの最後の年。
四月に許しを得て伏見へ帰ります。
その際、将軍より立花丸壺の茶入を拝領します。

六十八歳の折には門人や松屋久重に
利休との初めての出会いについて語っています。
「遠州云、十歳の時利休ニ逢たるよ
大和大納言殿へ太閤御成ノ時
給仕を十歳の時仕たるよ  」(甫公伝)

伏見に戻ってからも遠州公は盛んに茶会を催し、

六十七歳で二十一回
六十八歳で三十七回

伏見奉行屋敷において、友人知人を招いています。
また、六十八歳の時にはぶどう酒を茶会に用いた
という記録が残っています。

12月9日(水)遠州流茶道の点法

2015-12-9 UP

12月9日(水)遠州流茶道の点法
「茶事・会席」

ご機嫌よろしゅうございます。

亭主がお客様それぞれに挨拶をして
風炉の場合は会席が、炉の場合は
まず部屋を暖めるため炭点法をはじめます。
炭点法が終わると亭主は
「粗飯を差し上げます」
と挨拶して、お膳を出し会席が始まります。

茶事で振舞われる会席は日本料理の
基礎となっていると言われています。
これまで、自分で調味料をつけていただく
スタイルから、予め調味されて出される
お仕着せ料理へと変化していきます。
また三の膳、五の膳など、豪華で目の前にずらりと
膳が並び、食べきれない程の量が出された本膳料理から
膳が一つに限られ、一つ一つ食べ終わるごとに
そのつど温かい料理が適当なタイミングで運ばれて
食べきれる量のスタイルへと変化していきます。

遠州公も一つ一つの料理を少量にして、食べきれる
料理をお出しするよう工夫しています。

12月7日 (月)針供養

2015-12-7 UP

12月7日 (月)針供養

ご機嫌よろしゅうございます。

明日12月8日はお釈迦様が悟りを開いた日
で「臘八」と呼ばれます。
これについては昨年ご紹介しました。
また12月8日は針供養の日でもあります。

この針供養の日は
関西と関東では日にちが異なり
関東では2月8日
関西では12月8日に行われるのが
一般的なようです。

この針供養では
折れたりして使えなくなった古い縫い針を
こんにゃくや豆腐などに刺して供養する行事です。
いつも固いものばかり刺している針を
労わる気持ちから、柔らかい蒟蒻や豆腐に刺して
供養するのだそうです。

豊臣秀吉も、織田信長に仕える前の若き頃
縫い針を売る行商をして
旅を続けたと言われています。