12月28日 (月)亡羊(ぼうよう)
ご機嫌よろしゅうございます。
今年も残すところあと4日となりました。
今年の干支は羊でした。
その羊に関する故事で、こんなものがあります。
中国戦国時代、思想家の楊朱の隣家から
羊が一匹逃げました。大勢の者が追いかけますが、
道がいくつも分かれていたために、
取り逃がしてしまいました。
それを聞いた楊朱は、
「学問の道もいくつもに分かれていて、
真の道がわからなくなる」と嘆いたといいます。
このことから
「多岐亡羊」
(岐き多くして羊を亡う)
という言葉が生まれ、
学問の道があまりに幅広いために、
容易に真理をつかむことができないことのたとえ
また、あれかこれかと思案に暮れることのたとえ
に使われるようになりました。
遠州公と親交のあった江戸初期の儒学者
三宅亡羊は名を島といい、寄斎と号しましたが
晩年にこの亡羊の号を用いました。
12月 25日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「辞世の句」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日で遠州公所縁の地にちなんだお話も
最後となりました。
今日は遠州公の辞世の句をご紹介したいと
思います。
遠州公は六十九歳の二月六日、
伏見奉行屋敷で亡くなりました。
きのふといひ けふとくらして なすことも
なき身のゆめの さむるあけほの
今までの人生と遣り残したこと
その全ての欲を捨て去った時に
人間は人間に取って一番大切なものが
何であるかと言うことを知るのだ。
今までの人生と残した仕事さえ、
亡くなって逝く自分には
曙の中ではかなく覚めてゆく
夢のような気がする.
12月 23日(水)遠州流茶道の点法
「薄茶・後礼(こうれい)」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は濃茶までお話しました。
今日はお茶事の最後、薄茶についてお話します。
濃茶をいただいた後は席を広間に移して
薄茶をいただきます。
歳暮に広間にうつらず、小間のまま続き薄をすることも
ありますが、通常は遠州流茶道では場所を変えることで、
それまでの雰囲気をガラッと変え、広間では
和やかで気楽な空気を楽しみます。
遠州公は濃茶の後に鎖の間を通って広間に移動し、
精神性を重んじた茶から草創期の書院の茶、
更に古典的な王朝文化を感じられる茶へと、
さながら茶の湯の時代絵巻のように楽しむ空間を
創り上げました。
広間の席に移りましたら、これまでの労を労い、
ご亭主にも薄茶をおすすめして皆で楽しみます。
水菓子などもいただき、芳名帳などがあればここで
記入し、全体で約4時間程度のお茶事もこれで終了です。
お茶事の翌日に再び亭主宅を訪問し
客は後礼といって
茶事のお礼をします。
亭主に感謝の意を伝えましよう。
12月21日(月)喜峰(きほう)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は二世大膳宗慶の道号「喜逢」
についてご紹介します。
大徳寺江月和尚に参禅していた大膳宗慶が
大灯国師の第三百六回の正当忌に当たる
寛永十九年(1642)十二月二十二日
江月和尚から、その忌日に逢うを喜ぶ
という意味で「喜逢」という道号が授与されました。
そして大灯国師の六百年の大遠忌には
11世の宗明宗匠がお献茶を
六百五十年には12世宗慶宗匠が
そして、昭和五十八年には13世となる宗実
家元が献茶をなされ、
三代に渡って大灯国師の尊い教えに献茶を
もって感謝の意を捧げられ、
二百六十年の時を越えて、逢うに喜ぶ日を
迎えられたのでした。
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12月18日(金)遠州公の墓
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公最晩年のご紹介をいたします。
正保四年(1647)六十九歳
二月の六日に伏見奉行屋敷で亡くなります。
この五日前の二月一日には、伏見の茶亭で
茶会を催したと伝えられており、
その命の尽きるまで、茶の湯の生涯でした。
遠州公の墓は
京都市北区の大徳寺孤篷庵、 東京の練馬区の広徳寺,
滋賀県浅井町の孤篷庵にあります。
京都のお墓は先祖が一人づつ個別のお墓に
祀られており
東京のお墓は宗中公以降の十代目以降は
同じお墓に、
近江孤篷庵は七代目までは別々に
祀られているとのことです。
12月 16日(水)遠州流茶道の点法
「中立・濃茶」
ご機嫌よろしゅうございます。
炭点法・会席が終わると一度席を改める
中立ちです。
この間に辺りが暗くなっていれば石灯籠に
灯りが燈ります。裏方はこの石灯籠の中に
火をいれ、障子紙を水貼りします。
白い紙の奥にうつる柔らかい光は、暗がりの
露地の景色をより一層美しく引き立ててくれます。
銅鑼の音が聞こえたらいよいよ席入りです。
濃茶では、客は静かにお茶が点つのを待ちます。
通常の稽古ではお菓子をいただいてお茶を飲みますが、
本来は会席の最後にお菓子をいただき、
中立ちで口も清めるので、濃茶の席では
お茶本来の甘み・苦味をじっくり味わいます。
12月 14日(月)王服茶
ご機嫌よろしゅうございます。
12月13日は事始め
いよいよ新しい年を迎える準備を
始める時期となりました。
かつて京都の空也堂では、
事始めから大晦日まで、
僧が手製の茶筅を売り歩く風習がありました。
この茶筅でお茶を点てると無病息災の
御利益があるといわれ、お正月に頂くのが
慣わしでした。
村上天皇の時代、都に疫病が流行しました。
空也上人は観音菩薩に疫病調伏を祈願し、
茶筅で点てた茶を供えて民衆に分け与えました。
この空也上人については11月16日にご紹介しました。
茶を服した者はたちまち平癒したといいます。
これを知った天皇が、正月三ヶ日に茶を
召し上がるようになったそうです。
その風習は「王服茶」と呼ばれ、
この故事に因み、空也堂の僧侶は師走になると、
正月の王服茶を点てるための茶筅を売り歩いたのでした。
12月 11日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「伏見へ帰る」
ご機嫌よろしゅうございます。
正保二年(1645)遠州公六十七歳
江戸四年詰めの最後の年。
四月に許しを得て伏見へ帰ります。
その際、将軍より立花丸壺の茶入を拝領します。
六十八歳の折には門人や松屋久重に
利休との初めての出会いについて語っています。
「遠州云、十歳の時利休ニ逢たるよ
大和大納言殿へ太閤御成ノ時
給仕を十歳の時仕たるよ 」(甫公伝)
伏見に戻ってからも遠州公は盛んに茶会を催し、
六十七歳で二十一回
六十八歳で三十七回
伏見奉行屋敷において、友人知人を招いています。
また、六十八歳の時にはぶどう酒を茶会に用いた
という記録が残っています。
12月9日(水)遠州流茶道の点法
「茶事・会席」
ご機嫌よろしゅうございます。
亭主がお客様それぞれに挨拶をして
風炉の場合は会席が、炉の場合は
まず部屋を暖めるため炭点法をはじめます。
炭点法が終わると亭主は
「粗飯を差し上げます」
と挨拶して、お膳を出し会席が始まります。
茶事で振舞われる会席は日本料理の
基礎となっていると言われています。
これまで、自分で調味料をつけていただく
スタイルから、予め調味されて出される
お仕着せ料理へと変化していきます。
また三の膳、五の膳など、豪華で目の前にずらりと
膳が並び、食べきれない程の量が出された本膳料理から
膳が一つに限られ、一つ一つ食べ終わるごとに
そのつど温かい料理が適当なタイミングで運ばれて
食べきれる量のスタイルへと変化していきます。
遠州公も一つ一つの料理を少量にして、食べきれる
料理をお出しするよう工夫しています。
12月7日 (月)針供養
ご機嫌よろしゅうございます。
明日12月8日はお釈迦様が悟りを開いた日
で「臘八」と呼ばれます。
これについては昨年ご紹介しました。
また12月8日は針供養の日でもあります。
この針供養の日は
関西と関東では日にちが異なり
関東では2月8日
関西では12月8日に行われるのが
一般的なようです。
この針供養では
折れたりして使えなくなった古い縫い針を
こんにゃくや豆腐などに刺して供養する行事です。
いつも固いものばかり刺している針を
労わる気持ちから、柔らかい蒟蒻や豆腐に刺して
供養するのだそうです。
豊臣秀吉も、織田信長に仕える前の若き頃
縫い針を売る行商をして
旅を続けたと言われています。