5月 20日(金)能と茶の湯「大会(だいえ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
十五日は七十二候の「竹笋生(たけのこしょうず)」でした。
またこの季節に「筍流し」という夏の季語として使われる言葉があります。
「たけのこ」が生える頃に吹く、雨を伴いやすい南風のことを表します。
竹の花入で能に所縁のあるものに「大会」があります。
今日はこの「大会」をご紹介します。
ある日比叡山で修行していた僧のもとに、一人の山伏が訪れ、
以前命を助けられた者だと言って礼を述べます。
この山伏、かつて僧が京童達にいじめられていたのを
助けた鳶(とび)でした。(この鳶は実は天狗)
釈迦が法華経を説いた時の様子を自分の目で見たいとの
僧の願いを、山伏は「叶えるが、信心を起こしてはならぬ」と言い、
僧の目前で釈迦に扮して再現します。
僧は先刻の約束を忘れて思わず信心を起こしてしまい
天から帝釈天が現れ、信心深い僧を幻惑したとして大天狗を責め立てます。
もとの姿に戻った天狗は、帝釈天に対して平謝りし逃げ帰っていきました。
5月16日(月)茶摘み
ご機嫌よろしゅうございます。
茶摘みの目安となる八十八夜は
立春から数えて八十八日目と言われ、
今年は5月1日でした。
しかしこの頃に摘まれるのは露地茶園の煎茶で、
抹茶にされる覆下茶園の茶摘みは
被覆効果が十分にあらわれ緑の濃いお茶になるのが
時期的に言うと5月の中旬。
ちょうど今頃から、摘み始めの時期になります。
さてこのお抹茶ですが、従来の製法を変えて、
古田織部は青みの強いお茶を好み、
これを「青茶」と呼ぶようになりました。
但し、青茶は色が綺麗ですが味にはやや難があった
と言われていました。
対して、弟子である遠州公が好んだのは
従来の製法の「白茶」でした。そのことから、
遠州公は好みのお茶に銘をつける際には
「白」の字をつけて青茶と区別したといわれています。
また茶銘には「昔」の字が使われていることが多い
ですが、これは遠州公が昔の製法に戻したという
事に起因しているという説があります。
そして「初昔」「後昔」は当時の茶師が筆頭のお茶の銘としていた、
由緒ある銘となりました。
それ以降、優れた品質の濃茶には「昔」の文字を
使うようになっていったと考えられています。
5月 13日(金)能と茶の湯「二人静」その二
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は能曲「二人静」を御紹介しました。
今日はその「二人静」にちなんだ裂地を御紹介します。
足利義政が「二人静」を舞った際
紫地に鳳凰の丸紋の金襴の衣装をまとったことから、
この文様を『二人静金襴』とよぶようになったと伝えられ、
大名物「北野肩衝茶入」や「浅茅肩衝茶入」の
仕覆に用いられています。
ちなみに、能では「ふたりしずか」と読まれますが
裂では「ににんしずか」と読むのが通例となっています。
5月 9日(月)宗家道場の床の間拝見
ご機嫌よろしゅうございます。
色とりどりの花達に目を楽しませてもらった後
次に目に飛び込んでくるのは清々しい新緑の青
季節は次第に春から初夏へと移りゆきます。
茶の湯ではそんな季節の動きをとらえ
床の間にその自然の姿が映し出されます。
5月1日は八十八夜でした。
この八十八夜についてはまた後日改めてお話したいと思います。
床 紅心宗慶宗匠筆 龍門登鯉
花 燕子花
花入 硝子 ポーランド
こちらの掛物は、端午の節句に因んだ画題
鯉の滝登りです。
「魚が三段の滝を登りきると昇天して龍になる」
という中国の故事に基づいています。
鯉のぼりを立てる風習や、「登竜門」という言葉も
この故事によるものです。
紅心宗慶宗匠が昭和丙申歳正月、男子出生を夢見、
描かれ(同年九月、宗実家元誕生)、
翌年、初節句の茶会に用いられました。
5月 6日(金)能と茶の湯「二人静」
ご機嫌よろしゅうございます。
晩春から初夏にかけて十字状にのびる4枚の葉の
真ん中からのぞく2本の花穂に,
白く小さな花が山林で咲く姿を見かけます。
この花の名は「二人静」
静御前の亡霊が舞う能曲「二人静」から
2本の花穂を静御前とその亡霊の舞い姿に
たとえて名づけられました。
今日はこの「二人静」を御紹介します。
吉野山の勝手神社の神官が、
正月七日に菜摘女(なつめ)に若菜を摘みに行かせます。
その菜摘女に静御前の霊が憑き、
神官のもとへ戻ってきます。
そして菜摘女に取り憑いた霊は、自分が静御前であることを
告げ、ここの蔵に自分の舞装束が仕舞ってあると言い、
それを身につけます。
菜摘女が舞い始めると、静御前の霊が現れ、
影のように寄り添って舞います。
静御前は義経の吉野落ちの様子や、鎌倉にて
頼朝の前で舞を舞わされた出来事を物語り、
神官に弔いを頼んで消えていきます。
5月2日(月)ちまきの話
ご機嫌よろしゅうございます。
5月5日は端午の節句
和菓子屋さんには節句にちなんだちまきや柏餅が並びます。
関西ではちまき、関東では柏餅が主流と
言われたりしますが、このちまきと柏餅については
以前メルマガで御紹介していますので、
今日は川端道喜のちまきを御紹介します。
爽やかな香りのする青々とした笹にくるまれた
とろんとした葛のちまき
「水仙粽」との名前で今も人々に愛されています。
このちまきの発祥は室町時代に遡ります。
この頃の朝廷は衰退し、お姫様も食べるものに
事欠く有様でした。それを見かねた,御所前に餅屋を
営んでいた川端道喜が朝廷に餅を運んだのだそうです。
以来この朝の慣例は東京遷都の前日まで、
350年にわたり休みなく続いたのだそうです。
さらに御所のために力を貸した道喜に感謝し
吉野から献上された葛を下賜します。
その葛で作られたのが「水仙粽」
ちなみに初代・道喜は千利休の同門で学び、
「利休百会記」にも二度ほどその名が登場する
風流人だったようです。
4月 29日(金)能と茶の湯~狂言編~「通円」
ご機嫌よろしゅうございます。
狂言では、話の中に茶の湯が登場するものが
いくつかあります。
今日はそのうちの一つ「通円」を御紹介します。
舞台は宇治ある旅の僧が平等院に参詣します。
無人の茶屋に茶湯が手向けてあるのでいわれを聞くと、
その昔、宇治橋供養の折、通円という人物が
大勢の客に茶を点て続けた挙句息絶えたのだとか。
今日がその命日に当たるのだと語り、
僧にも弔いを勧めます。そこで読経をする中、
通円の亡霊があらわれ自分の最期のありさまを語ります。
「都からの修行者が三百人もおしよせ、
一人残さず茶を飲まそうと奮闘するも、ついに茶碗、
柄杓も打ち割れて、もはやこれまでと平等院の
縁の下に団扇を敷き、辞世の和歌を詠んで死んでしまった。」
そう語り終え、通円は回向を頼んで消えていきます。
この通円現在でも宇治橋のたもとに通円茶屋があり、
一服されたことのある方もいらっしゃるのでは
ないかと思います。この通円茶屋の初代通圓は
主君源頼政に仕え、平家の軍と戦いました。
その後頼政が平等院にて討死、通圓もあとを追います。
狂言「通円」は、この頼政と初代通圓の主従関係を
物語った能「頼政」をなぞって大勢の敵をなぎ倒し、
末に滅んでいくていく様子を、何百人もの参詣客を
相手に茶を点て死んでいく通円を描いたものです。
4月25日(月)藤の花
ご機嫌よろしゅうございます。
桜が咲き、散っていく姿に人々が
目を奪われている頃、少しづつ少しづつ
己の花を咲かせる準備をしているのが「藤」です.
茶の湯では、その咲き始める一寸前の
藤の姿を切りとって「袋藤」として
床の間に飾り愛でます。
また、藤の花が咲き始め、風になびく様をたとえた
言葉に「藤波」があります。
遠州公が「藤波」を銘につけている茶道具が
いくつかあります。
瀬戸金華山窯茶入「藤波」
「かくてこそみまくほしけれ万代を
かけて忍べる藤波も花」
( 2014年 4月26日 メルマガ参照)
竹一重切花入
「ちはやぶるかもの社のふじ波は
かけてわするるときのなきかな」
たおやかに垂れるフジの花姿は、
華やかな中に気品を感じさせてくれます。
4月 22日(金)能と茶の湯
「くせ舞」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は能にちなんだ遠州公ゆかりの
お道具を御紹介します。
遠州蔵帳記載の茶杓に「くせ舞」
という銘の茶杓があります。
節の部分に波紋のような綺麗な模様が
出ており、数ある遠州公の茶杓の中でも
秀逸の一本です。
くせ舞は扇を持って鼓を持ち、一人から二人で
舞う中世の芸能の一つでしたが、この音曲を
能に取り入れ、能の「クセ」と呼ばれる小段が
成立したとされています。
織田信長が舞ったとされる「幸若舞」も、当時の曲舞
の一つだったようです。
この「くせ舞」の節回しが面白いということから、
「節おもしろし」にかけて、「くせ舞」
と命銘されました。後に益田鈍翁が所有し、
大いに自慢しました。
4月18日(月) 学習院創立百周年記念会館の茶室
ご機嫌よろしゅうございます。
昨日の日曜日は学習院大学にて
オール学習院が開催されました。
この茶会では例年立礼の気軽なお席で
無料にてお茶をいただくことができます。
この百周年記念会館は昨年改装され、
席披きが催されたお家元監修の茶室があり、
「櫻風庵(おうふあん)」と名付けられたその茶室において
金曜日に学生だけでなく一般の方もお稽古しています。
昭和五十五年
大学卒業後、禅寺修行を終えた御家元が、
櫻井和市院長先生にご挨拶にいかれた際、
当時完成していた百周年記念会館で、
お茶の稽古を始めることを勧めていただき、
当時御年80歳の櫻井院長先生は、
御家元の一番弟子になられお稽古をはじめられた
というエピソードがあります。
それがこのお稽古場の始まりで、
現在の御家元の直門・真甫会の前身にあたり
お家元にとって、この地はお茶を指導する
出発地となった場所なのです。