3月31日(金)茶の湯に見られる文様
「柳」
ご機嫌よろしゅうございます。
春に掛けられる禅語の中に
「柳緑花紅」があります。
以前メルマガでも何度かご紹介しましたが、
自然の姿そのものが真実だということを表す言葉です。
柳が日本に伝えられたのは奈良時代中期といわれています。
魔よけや邪気払いの植物とされ、送別の時には
柳の一枝を添えるという風習もあり、
茶の湯でお正月に結び柳を飾るのもここに由来します。
「柳」と共に描かれるものに、「燕」や「蹴鞠」があります。
「柳と燕」は初夏に着る着物や帯に多くみられる文様。
柳が芽吹く頃、燕が日本にやってくるため
燕と柳の組み合わせは初夏の情景を表すものとし
て共に描かれることが多く、着物や帯の柄に見受けられます。
絵画では中国南宋時代の禅僧・牧谿の筆と伝わる
「柳燕図」
雨滴をふくんだ柳の小枝に風が吹き、枝にしがみつく二羽の
燕と飛び去る一羽の燕が描かれています。
また「柳と蹴鞠」の文様もよく目にするものですが、
朝廷や公家の間で行われた蹴鞠では、
四隅に「柳、桜、楓、松」を配したところから
「柳と蹴鞠」の文様として定着したようです。
ご機嫌よろしゅうございます。
菜花畑をひらひらと舞うモンシロチョウ
春の穏やかな景色です。
蝶は秋草や牡丹など様々な組み合わせで描かれます。
また平安時代以降、浄土信仰が盛んになると
蝶は鳥と共に、浄土の使者としても描かれます。
その儚い美しさ、空を舞う様子は死者の霊魂を連想させ、
古代ギリシャではプシュケ(霊魂)と表されていました。
その「死」の象徴を「不滅」の印として戦国の武将は、
その蝶を兜や家紋に使用したと言います。
型物香合番付西前頭三枚目「荘子香合」と呼ばれる香合は、
菱形の染付香合の甲部分に蝶が描かれています。
名前になっている「荘子」とは、
「荘周」であり紀元前4世紀後半の中国戦国時代の思想家
道家思想の大家です。
その「荘子」斉物論編に「胡蝶の夢」というお話があります。
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志与。
不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。
不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
ある日荘周が胡蝶になった夢をみます。
自分が夢の中で蝶になったのか、それとも夢の中で
蝶が自分になったのか、自分と蝶との見定めが
つかなくなったというお話。
このお話から香合の名がついています。
また裂地に見られる蝶
小羽のある虫文は大抵は蝶と呼んでいます。
中国では清代になると蝶が宝尽し文の中にも現れ
アゲハ蝶のような羽に文様のある蝶が現れます。
3月17日 (金)茶の湯に見られる文様
「花筏」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は「桜」についてご紹介しました。
遠州公も20代の頃、吉野へ花見に訪れていますが、
今日はこの吉野の桜にちなみまして「花筏」の
ご紹介を致します。
桜で有名な吉野の川を下る材木、これを筏に組んで
川を下る際に、桜の花びらがひらひらと降りかかり
筏とともに川を流れる姿は、揺れる恋心にも例えられ
「吉野川の花筏」として歌謡や俳諧に歌われる「雅語」
となっていきました。
遠州公が作庭したと伝わる高台寺。
その秀吉と北政所を祀る霊廟である御霊屋には
天女を想像させる楽器散らし文様、そしてこの花筏文様が
描かれます。吉野には古くより仙郷伝承があることから、
浄土とみなされており、秀吉と北の政所の御霊屋は
浄土を表す装飾を施しています。
「花筏」にはこの高台寺蒔絵の意匠を模した宗旦好
「花筏炉縁」や、永楽保全作「金蘭手花筏文水指」
などの華やかな道具など多数残されています
3月13日(月) 花入「深山木」
ご機嫌よろしゅうございます。
そろそろ待ち焦がれた桜が、その蕾を膨らませる頃。
今日は遠州公作の竹花入「深山木」をご紹介致します。
ごまと縞模様が味わいのある片見替わりの景色の竹を
遠州公が利休の「尺八」と同様根を上にして切り出したものです。
深山木のその梢とも見えざりし
桜は山にあらわれにけり
この歌は「詞花和歌集」所載、作者は鵺退治で有名な源頼政で
「平家物語」や「源平盛衰記」などにも引用されている歌です。
急に開かれた歌会で「深山の花」という題がだされ
人々が詠めずに困っていたところ、頼政がこの歌を詠み、
皆感心したと「平家物語」に記されています。
深山の木々の中にあって、その梢が桜とは分からなかったが、
咲いた花によって、初めて桜とわかるものだなあ。
なんてことない竹と思われていたが、花入となった途端
その美しさにはっと驚かされた
そんな想いが込められているのでしょうか。
この「深山木」については宗実御家元が昨年出版された
著書「茶の湯の五感」の中で、利休の「尺八」とともに
紹介されており、
利休のスパッと切られた尺八花入と異なり、深山木の切り口は
節ぎりぎりで残すところに、武士としての節度節目を
踏まえた遠州公の姿勢が伺えるとおっしゃっています。
3月10日(金)茶の湯に見られる文様
「桜」
ご機嫌よろしゅうございます。
3月も半ばを過ぎると、多くの人がその便りを
心待ちにしている桜の開花
雨や風で花を散らされはすまいかと、毎日はらはら
と天気予報をご覧になる方もいらっしゃるのでは
ないでしょうか?
「世の中にたえて桜のなかりせば…」
と在原業平が歌ったように、はるか昔から
日本の人々は桜を愛し、その変化に心躍らせてきました。
その生け方には茶人達の心も悩ませたようで
富貴すぎるということから茶の湯の花として用いた例は
多くありませんが、武野紹鷗は水盤の中に散った花びらを
浮かべた、また古田織部はお客の土産の桜を
いけたという話が残っています。
道具にみられる桜では
古浄味造「桜地紋透木釜」
また、昨年・能「桜川」でご紹介しました「桜川釜」や
「桜川水指」も桜の意匠の代表的なお道具にあたるでしょう。
他、桜にちなんだお道具については次週「花筏」で
ご紹介します。
3月6日(月)今月の菓子
「西王母」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週3日金曜日のメールマガジンが、文章の途中で配信されて
しまいました。大変失礼致しました。
今日は先週の続きと、今月のお菓子をご紹介致します。
先週は「桃」の文様についてご紹介してまいりました。
崑崙山の仙女・西王母が、三千年に一度しか実らない
不老長寿の桃の実を、漢の武帝に贈ったという伝説から、
西王母の銘で桃をかたどったお菓子を茶席で頂いたりします。
桃をかたどった道具には、五島美術館に
松平不昧から姫路の酒井家に伝来した
桃の形の大型型物香合が所蔵されています。
明時代以降の龍泉窯の青磁で
「形物香合相撲」番付の西前頭筆頭に位置しています。
さて、今月のお菓子はその不思議な力をもつとされる桃をかたどった
「西王母」です。まんまると実った実を頂いて、長寿を願いつつ
お茶を頂きます。
3月 3日(金)茶の湯にみられる文様
「桃」
ご機嫌よろしゅうございます。
3月3日は「上巳の節句」
桃の節句とも言われるように、桃の花が開くと
春の到来であり、新たな命の誕生を祝う農耕的な祝祭が
現在の「雛祭り」の起源といわれています。
古来より桃は延命と魔除けの呪物として珍重され
吉祥文様としても用いられていました。
清朝の時代には一茎ニ果の双桃子、三果のものを
三千歳と呼び、さかんに使われています。
名物裂を遠州公が集めた「文龍」には「金入桃花文緞子」
の裂があります。花・実・果実が一緒に描かれており、
意匠の定型化がみられます。
また崑崙山の仙女・西王母が、三千年に一度しか実らない
不老長寿の桃の実を、漢の武帝に贈ったという伝説から、
2月 24日(金)茶の湯と文様
「石畳文」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州流茶道に親しまれている方にとっては
馴染み深い「石畳文」をご紹介致します。
正倉院の錦や、平安当時の宮廷で官位の制によって
定められた文様である有職織物にも「石畳文」は
見受けられ、「露文」と表現されていますが、
これは字の如く小さな文様であったようで
遠州緞子として知られる「大石畳唐花七宝文緞子」は
5センチ程の桝に四隅に星を持つ七宝文と、三種の唐花を
配しており、江戸初期日本に渡ってきた際には
大胆且つ新鮮な驚きを当時の人も抱いたことでしょう。
他にも色縞に小石畳を地模様とし、その上に宝尽しを散らした
「伊予簾椴子」。こちらは遠州公が中興名物の伊予簾茶入の
仕服に用いたことからの銘です。
また、星の文様が入った「尊氏金欄」または「白地大徳寺金欄」
とも呼ばれる「釣石畳」などがあります。
石畳文といえば京都にある桂離宮松琴亭の
一の間の床の貼付壁と襖障子が思い浮かびます。
青と白の配色による大胆な大柄石畳文様です。
江戸時代には多様な種類の石畳文様が能装束や小袖に
見られ、当時の流行が伺えます。
江戸時代の中期には京都から江戸に下った歌舞伎役者
佐野川市松が、中村座での初舞台「高野心中」に
小姓粂之助役で着用した袴の柄が石畳の文様でした。
その若衆振りが大変な人気を呼び、それ以降石畳文は
佐野川市松の名をとって市松模様と呼ばれるように
なっていったと言われています。
2月 20日(月)「宿の梅」
我が宿の梅の立ち枝や見えつらむ
思ひの他に君がきませる
ご機嫌よろしゅうございます。
今週の25日には御自影天神茶会が行われます。
菅原道真公といえば梅の花
太宰府に左遷となった道真
その道真を追いかけて梅の木が飛んで行ったという
「飛び梅伝説」。
この故事から、「道真」と「梅」という結びつきが
天神信仰の広まりと共に鎌倉中期以降に大衆に浸透します。
また「梅」は文様としても多く描かれていることは
先月にもご紹介しました。
さて、冒頭ご紹介しました梅の歌にちなんだ銘の茶入
「宿の梅」があります。
江戸時代初期、薩摩で焼かれたこの茶入は
白地の下地が褐色釉のところどころから見え隠れし
まるで梅のような景色を作っています。
後藤三左衛門所持から「後藤」ともよばれ、
遠州公が「拾遺集」の平兼盛の歌から命銘しました。
2月 17日 (金)茶の湯と文様
「春日山」
ご機嫌よろしゅうございます。
春日山は春日大社の背景ともなる山で
春日大社は藤原不比等が、常陸の鹿島の神である
タケミカヅチノミコトを春日大社に迎えたことにはじまり、
その際神を導いたのが白鹿であったことから、
現在でも鹿が神の使いとして大切にされています。
筑前芦屋釜で利休所持と伝わる「春日野釜」があります。
真形鬼面鐶付で、地紋に春日の神鹿が表現されています。
一面に振り向いた牝鹿、それを追うような牡鹿が
鋳だされています。
他にも「春日山釜」など「春日野」や「春日山」が
単に鹿の文様の総称にもなっており、筑前、伊勢、博多の
各釜作地に遺釜をみるといいます。
また根津美術館所蔵の「春日山蒔絵硯箱」は足利義満遺愛の品で、
ゆるやかな山に鹿、月に秋草、紅葉を配したデザインの中には
「盤(は)」「こ・と・に」「け」「連(れ)」の文字が
葦手とよばれる絵画化した文字を潜ませる手法で表され、
「古今和歌集」の壬生忠岑の歌
山里は秋こそことにわひしけれ
鹿の鳴く音に目をさましつつ
を暗示させる、文学的趣向が込められています。
お勅題「野」にちなみ、今年は特に多く取り上げられる文様
でなないでしょうか。