話が全く違う方向に行ってしまいましたが、
遠州高取の特徴についてかいつまんで
お話をさせて頂きます。
まずは高取と言えば茶入ですが、
この地小石原鼓窯はお茶入窯とも
呼ばれるほど多くの作品が作られました。
高取初期の茶入はろくろから切り離す時の
指跡を残しており、糸切も唐物切であった
ものが、遠州公の指導以後は指跡は
きれいに削られ和物切となります。
寸法も古瀬戸に比べると小ぶりとし、
三寸を超えることがないようになります。
口と糸切寸法を同寸法とすることで
バランスがよくなります。
織部時代の好みは下張(竹形)のような
どっしりとした形を数多く作っておりましたが、
上部の肩の張った造形に好みが変化していきました。
また耳などつけることによって、
雅さや愛らしさの表現をし平和な時代の
象徴ともいえるものを好みとされたのでありましょう。
これは遠州髙取という言ってみればブランド化であり、
徳川時代を象徴するような器づくりを
指導されたのだと思われます。
師匠である織部の美意識とは正反対のシンメトリーを
美しいとしたところは当時の茶の湯道具としては
とても新しい感性であったことでしょう。
何より茶の湯の道具つくりで大切なところは
潔さといえるのではないでしょうか。
見た目だけなら3年も励めば似たようなものは出来ます。
しかしその一太刀にかける剣士のような其の心が
なければ似て非なるものとなってしまいます。
日々精進するしかありません。
ご機嫌よろしゅうございます。
インタビューの続きです。
初代が日本で窯を築いた場所は山間部にあり、
土を求めてというよりふるさとに似た景観を
探したのではないかと感じます。
そのようなことから初代は南出身、
山間部に育ち日本人の美意識を反映した器は
作っていたわけではなく、特殊な器である
祭器のみの陶工であったと思われます。
祭器を作っていたからといって、陶工で
あったかどうかは不明ではありますが。
日本人の美意識ということで高麗茶碗に関して
いくつか私の感じるままに申し上げますと、
例えば熊川(会寧)茶碗はもとは小ぶりな
鉢のような形であった物を見て、茶碗として
使用しやすい深さに作らせたのが真熊川茶碗
であり、鏡を小さくしたり砂目跡をつけたり
は皆お茶人の美意識でありましょう。
呉器などにつく4つの指跡の釉薬の抜けなどは
無造作の演出であり、粉引などの火間
(釉抜け)や高台から突き出ていく玄悦の
かんな削りなど同じ感性であり不足の美
ということを意識した作りだと思われます。
数多くの目跡も景色であり、または注文主を
明確にするための窯しるしであったのかもしれません。
初代はこのような注文茶碗を作っていた
窯場にはいなかったと思われます。
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は八山氏のインタビュ―の続きです。
目跡から紐解いていきますと、その数は
ほとんどが4つで高取においてもそのすべては
4つ目跡です。
初代の義理の父親である井戸新九郎の作って
いたものには3つ目跡もあります。
朝鮮半島の南側特に海沿いの窯場では
そのほとんどが目跡は5つです。
これは茶人が好んだ奇数を意識して作ったので
ありましょう。
山側の加耶山周辺(黒田軍と加藤軍が進軍した
ルート)は4つか3つ目跡です。この地には
八山里(パルサンリ)という地名も存在します。
義父は加藤軍にそして初代は黒田軍に従って
おりますので、その共通したルートに初代の
ふるさとが存在していることでありましょう。
黒田軍は漢城(現在のソウル)までしか進軍
しておりませんので、南側であることは明らかです。
しかし加藤軍が捕えた会寧の陶工集団が義父とともに
清正公の亡くなった後、黒田家に許され初代に
合流します。この会寧では唯一白釉陶器(すすきなど
の草灰・日本では藁白釉)が焼かれておりました。
その釉調などから初代は会寧の陶工なのでは
という学者がほとんどでした。
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は、高取焼宗家13代八山氏に高取焼の特徴などのお話を伺います。
八山さんよろしくお願い致します。
○『髙取の歴史や見どころを』、ということですので、
少し話をさせていただきます。
髙取の開窯は関ヶ原の戦いと同じ慶長5年(1600年)
でございます。
もともとは豊前宇佐の城主であった黒田家ですから、
その周辺でまず試験焼を繰り返していたのでしょう。
黒田長政公の戦功によって、筑前国に国替えとなり
その最初の窯である永満寺宅間窯で本格的に御用窯
として創業を始めます。
初代・八山がいかなる人物であったのか、
とても謎多き人物です。
当初はまだ大変若いにもかかわらず、
士分として半礼(殿様に御目通りかなう身分)
そして寺格、社格という身分まで与えられて
黒田家に従い海を渡りました。
そのルーツを探るには、当時、茶の湯道具として
最も珍重された高麗茶碗と関係が深いということは、
明らかなことでしょう。
なかでも祭祀として生まれた器である井戸茶碗が
そのルーツを探る上での要と思われます。
しかし今日まで一点として大井戸の破片すら
発見はされていません。
それほど特別な謎多き器なのです。
※次週に続きます
ご機嫌よろしゅうございます。
高取焼は遠州公の指導を受けた窯の一つとして挙げられます。
これは藩主黒田忠之の茶の湯への傾倒のみならず、
茶の湯の持つ政治的価値と、自国の高取焼の名を高めることが
御家の存続に有効であるとの考えから、
当時の茶の湯の第一人者であった遠州公に指導を仰いだと考えられます。
忠之公は焼きあがった高取茶入を相当数遠州公の元へ送り、
その監修を依頼しています。そして遠州公は上中下などの格付けと、
特に良いものについては蓋袋を誂え、よそへ進物として使えるか
どうかなどの助言も言い添えています。
その中でも「横嶽」はもっともよい仕上がりで、以前に焼かれた
「秋の夜」「染川」より優れているので、割捨てなさいとまで
忠之宛ての書状に記しています。
この「横嶽」についての書状が送られているのが、正保三年。
翌正保四年(1647)2月6日遠州公は亡くなっています。
遠州公没年の間際に遠州高取が様式的に完成の域に達したと考えられます。
高取焼の特徴
ご機嫌よろしゅうございます。
高取焼はその時代の流れの中で作風を変化させていきました。
永満寺窯時代には厚手で荒々しさのみえる様子。
土も粘り気の乏しい土。朝鮮の技法を用いて御用の陶器を焼き始めた
八山の試行錯誤の時期と思われます。
内ケ磯時代の前半は唐津焼や美濃の影響を受けた歪みの
強いものが多く焼かれています。これまで唐津焼として
伝わっていたものの中にこの時期の高取焼であったことが
確認された作品もあります。これまでは白旗山以降と思われていた、
遠州公の影響のうかがえる優美な茶入や水指も
内ケ磯末期には作られるようになります。
主君に帰国を願い出て怒りを買い、蟄居させられた山田窯では
日常雑器などを主に焼き、作為のない素朴な作風に戻ります。
(尚、この山田窯の時代にも内ケ磯窯は五十嵐次左衛門によって
続いていたと考えられています。)
主君忠之の許しを得て、新たな御用窯を築いた白旗山窯。
この頃、茶人小堀遠州の指導による「遠州髙取」
様式がほぼ完成します。
次週は高取焼と遠州公についてのお話をご紹介いたします。
ご機嫌よろしゅうございます。
今月から高取焼のご紹介をいたします。
薩摩焼・上野焼でも触れました通り、豊臣秀吉の2度にわたる
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で、西国大名たちは、
多数の朝鮮人陶工を連れ帰り、各地に焼き物の窯を開かせました。
福岡藩主黒田長政もその一人で、連れ帰った陶工・八山に
直方市鷹取山の麗に窯を築かせたのが高取焼の始まりです。
八山は日本で高取八蔵と名乗ります。
この鷹取山は、以前ご紹介した上野焼の窯元と山を隔てて
隣あった場所に位置します。
その後、慶長19年(1614)に直方市・内ヶ磯に、
寛永元年(1624)年に山田市・唐人谷に、寛永7年(1630)に
飯塚市・白旗山(現・飯塚市幸袋)に窯を移します。
八蔵はこの地で亡くなり、二代目八蔵が寛文5年(1665)に
小石原村鼓釜床に開窯。 この地が山奥で殿様がお越しになるには
難しいとのことで、その後大鉋谷窯や東皿山窯が築かれます。
以後高取家は明治まで、鼓村と城下町の両方で掛け務めが続きました。
〇薩摩焼の陶工
ご機嫌よろしゅうございます。
司馬遼太郎の小説「故郷忘じがたく候」をご存知でしょうか?
薩摩焼窯元として代々続く窯元の14代沈壽官を描いた小説です。代々「沈寿官」の名を継承し、現在は15代目となる沈家ですが、その初代にあたる人物が慶長の役の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中にいました。士族並みの扱いを受け厚遇されてはいましたが、200年の時を経てもその子孫は
「いまも帰国のこと許し給うほどならば、
厚恩を忘れたるにはあらず候えども、
帰国致したき心地に候……故郷忘じがたしとは誰人の言い置きけることにや。」
との想いを抱きます。その後も代々の当主は家業を守り続けます。そしてこの小説は韓国併合や太平洋戦争などの苦難の時代に家業を守り続けた13代と、14代の波乱の人生を題材にしています。重い歴史を背負い、自らの人生を真っ直ぐに進む姿に胸を打たれます。
〇薩摩焼と小堀遠州
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は薩摩焼と遠州公にちなんだお話を。
遠州公が自身の茶会で薩摩焼の茶入を使用した記録が寛永五年(1628)、遠州公49歳の9月14日朝にあります。
また、遠州公が指導した薩摩焼として有名なのが、
「甫十瓢箪」と呼ばれる瓢箪形茶入です。
遠州公の号である宗甫と、数の十個にちなんで、「甫十」と呼ばれています。
現存が確認されているものは数点で、
甫十瓢箪の一つである銘「楽」や「玉川」
が有名です。
茶入の底に「甫十」の彫銘があり、瓢箪形の耳付小茶入であるとされています。
耳の代わりに茶入の胴の二方に小堀家の家紋である七宝輪違い紋があります。
薩摩焼の特徴
ご機嫌よろしゅうございます。
薩摩焼は、その始まりから時代を重ねるなかで、様々な姿をみせてきました。
17世紀は茶陶の優品を残し、十八世紀には実用具を得意としました。苗代川系・竪野系・龍門司系・西餅田系・平佐系・種子島系などに分けられる系譜のうち、竪野が薩摩藩の藩窯であったと考えられています。
竪野窯は、藩主の居館の移転に従って、場所を移動しています。このことから竪野窯が特別な窯であり、御庭焼に近い性格のものと思われます。
初期は無骨な作行が特徴の左糸切の茶入や、半筒形・李朝の祭器を思わせる独特な形の茶碗が見られ、元和(1615~24)以後から新しい展開をみせ、文琳などの唐物を基本とした茶入や、陶工が故郷の土と釉を用いて日本で焼いた「火計(ひばかり)手」と呼ばれる白薩摩が焼かれます。