ご機嫌よろしゅうございます。
今日は茶の湯の中の信楽焼のお話しを。
信楽焼は先月ご紹介した珠光の「心の文」に
「ひせん物、しからき物」とあるように、
珠光が没する文亀二年(1502)までには備前や信楽の器が
茶の湯で使われていたことがわかります。
備前ともに信楽の水指の登用は早く、
15世紀頃には水指の生産が次第にはじまり、
茶会記には天正15、6年から盛んに用いられたことがうかがえます。
他の窯でも同様ですが、茶の湯道具はもともと茶陶として焼かれたのではなく、
早い時期のものは茶道具にふさわしい寸法やなりのものが「見立て」られて
水指として使われたもので、次第に茶陶の生産がはじまります。
信楽の花入は水指に比べて伝世品が圧倒的に少なく、
また作行には同時代の備前や伊賀のような強い作為は見られません。
〇信楽焼の特徴
ご機嫌よろしゅうございます。
信楽焼はその素朴さが好まれ、
茶人たちに茶の湯の道具として取り上げられていきました。
信楽焼に使われる土は、
琵琶湖の湖底に堆積した古琵琶湖層より採取します。
およそ400万年前から積もった土は耐火性があり、
信楽焼の素朴な肌触りや温かい火色を創りだします。
掘り出された様々な性質をもつ土や原料を砕いて、
水分と一緒に良く練ることで更に良質の陶土をつくります。
この土で成形した作品を1200度以上、二日間以上かけて焼いていきます。
窯で焼いたときに付着する自然の灰(ビードロ釉)、
そして土に含まれる石粒が白っぽくなることが信楽焼らしさを生み出しています。
〇信楽焼の歴史
ご機嫌よろしゅうございます。
先月の備前焼に続きまして、今月は信楽焼のご紹介を。
信楽焼も備前とともに六古窯に数えられる窯の一つです。
※信楽町観光協会ホームページより引用
信楽は、近畿地方と東海地方を結ぶ交通路に位置し京都にも近いこと、また良好な陶土が豊富なことから、古くから焼き物の産地として知られていました。
大もの陶器の産地として知られる信楽焼は、幻の都紫香楽宮の屋根瓦を焼くことから始まったといわれています。窖窯による壺、甕、擂鉢などの焼き物づくりが主でしたが、
室町時代になり、土味を生かした素朴な風合いが茶人の目に止まり、桃山時代に至って茶陶として発展しました。
ご機嫌よろしゅうございます。
備前焼が茶の湯に使われている様子は、侘茶の祖といわれる珠光が、
弟子の古市播磨法師にあてた「心の文」とよばれる文章でも確認できます。
「当時、ひえかる(冷え枯る)ると申して、
初心の人体が、備前物、信楽物などを持ちて、
人も許さぬたけくらむこと、言語道断也。」
初心者が備前焼や信楽焼を使うものではなく、まずは良い道具を持つことで
、その良さを十分に理解し、己の心が成長することでやがて辿り着くべきものである
と語っていますが、この焼き締めの素朴で飾り気のない陶器が侘茶を表現する茶陶として流行していたことがわかります。
来月は信楽焼についてご紹介します。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公と備前焼についてのお話しを。
遠州公の指導によって生み出されたとされる備前焼はいくつかありますが、
なかでも藤田美術館所蔵の烏帽子箱水指は遠州公が「えほし箱」と箱書しています。
菱形に成形された姿を烏帽子の箱に見立てたと考えられています。
このような形の水指は(伊部手に)比較的ありますが、中でも作行の優れたものとしてこの水指は有名です。
また中興名物に挙げられている「走井」茶入は唐物丸壺を手本として作成されたと考えられます。桃山末期から江戸初期には塗土を施した茶陶が焼かれますがこれを伊部手と呼んでいます。この茶入にも塗土が施されていて、光沢ある肌に灰がかかり、胡麻釉とよばれる黄褐色の景色が特徴的です。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は備前焼の特徴をご紹介します。
備前焼は釉薬を一切使用せず、1200〜1300度の高温で焼成します。二週間以上焼きしめるため、投げても割れないと言われるほど丈夫で大きな甕や壺が多く作られました。
備前焼の土は、100万年以上前に山から流出し蓄積された土の眠る田畑から採掘されます。きめ細かく粘り気があり鉄分を多く含みます。この鉄分が備前焼の茶褐色の地肌を作り出します。
備前焼では絵付け施釉などを行わないため、全ては土と火にゆだねられます。
窯への詰め方や温度、焼成時の灰や炭などの具合で生み出される景色が、世界に一つの作品を作り出します。
ご機嫌よろしゅうございます。
今月ご紹介する茶陶は備前焼です。備前焼の歴史は古く、瀬戸・常滑・信楽・丹波・越前とともに六古窯の一つにも挙げられます。
古墳時代に須恵器の生産をしていた陶工が、平安から鎌倉時代初期にかけてより実用的な器を焼き始めたのが始まりと言われています。茶の湯が盛んになるとその素朴な風合いが侘茶の心に適うとして、珠光や武野紹鷗に見いだされ茶道具として用いられるようになりました。
桃山時代、茶の湯の発展と共に隆盛を極めた備前焼でしたが、江戸時代になると茶の湯の趣向が変化し、衰退していきます。再び備前焼が再評価されるのは戦後、のちに人間国宝となる金重陶陽が備前焼の魅力を広め、後身の育成に尽力しました。
現在、備前焼は茶の湯に欠かせない人気の焼き物の一つです。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公と朝日焼についてのお話しを。
朝日焼は慶長年間(1596~1615)、奥村次郎右衛門籐作(生没年不詳)が宇治朝日山に築窯したことが始まりとされています。
初代藤作の作った茶碗は豊臣秀吉に愛玩され、御成りあって以後藤作を陶作と改め、家禄を賜ったと伝えられています。
そして正保年間(1644~1648)に、当時茶の湯の第一人者であり、宇治に隣接する伏見の奉行をしていた遠州公の指導と庇護を受け、遠州筆の「朝日」の二字を使うことを許されたといわれています。
茶碗に印を残すという行為は当時珍しかったようです。
また遠州公は宇治の茶師である上林家との交流もありました。
朝日焼は宇治のお茶を壺に詰めて納めるときに、「このお茶碗で召し上がってください。」
と茶碗を添えて送ったといわれ、宇治茶の発展に伴って進物として需要が高まりました。
そして、遠州好みの茶陶として公家や茶人をはじめ全国の大名に広く知られ好まれるようになりました。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公と朝日焼についてのお話しを。
朝日焼は慶長年間(1596~1615)、奥村次郎右衛門籐作(生没年不詳)が宇治朝日山に築窯したことが始まりとされています。
初代藤作の作った茶碗は豊臣秀吉に愛玩され、御成りあって以後藤作を陶作と改め、家禄を賜ったと伝えられています。
そして正保年間(1644~1648)に、当時茶の湯の第一人者であり、宇治に隣接する伏見の奉行をしていた遠州公の指導と庇護を受け、遠州筆の「朝日」の二字を使うことを許されたといわれています。
茶碗に印を残すという行為は当時珍しかったようです。
また遠州公は宇治の茶師である上林家との交流もありました。
朝日焼は宇治のお茶を壺に詰めて納めるときに、「このお茶碗で召し上がってください。」
茶碗を添えて送ったといわれ、宇治茶の発展に伴って進物として需要が高まりました。
そして、遠州好みの茶陶として公家や茶人をはじめ全国の大名に広く知られ好まれるようになりました。
ご機嫌よろしゅうございます。
今週からまたテーマを遠州公の指導した茶陶に戻りまして、お話をしてまいります。
今回は朝日焼。
京都の南、宇治川の流れと山々の緑。
豊かな自然に恵まれた宇治は平安時代、貴族の別荘地でした。平等院鳳凰堂でも知られるこの地ですが、京都のにぎやかさとは異なる穏やかな時の流れを感じます。
宇治川の朝霧に守られながら栽培される抹茶は、栂尾と並び第一の産地に。
天下人達が宇治の茶を好んで求めました。
そしてこの宇治川の源流となる琵琶湖から流れくる土が粘土となり、朝日焼に使われる陶土となりました。
宇治此の頃は茶の所となりて
いづこもいづこも皆(茶)園なり
山の土は朝日焼の茶碗となり
川の石は茶磨となる
竹は茶杓茶筅にくだかれ
木は白炭に焼かれて茶を煎る
と江戸時代初期の北村季吟が、山城の名所名勝記「兎芸泥赴」に記しています。
宇治という土地で「茶」というものの存在がいかに重要であったかが伝わります。
そしてこの地で焼かれた朝日焼は、後に「遠州七窯」の一つとして数えられるようになりました。
次回は遠州公と朝日焼についてご紹介致します。