ご機嫌よろしゅうございます。
今日は阿蘭陀茶碗をご紹介します。
遠州公の時代には既にオランダからの
陶器が舶来品として入ってきており、
オランダへの注文に関しては長崎のおらんだ
商館の記録が残っています。
注文が盛んになるのは寛永年間(1624~44)
末頃からで、土型や木型を本国に送って作ら
せています。
遠州公の箱書のつく「おらむだ 筒茶碗」
は遠州公の好んだ高取や薩摩などの半筒茶碗
と同じ形に、小堀家の家紋である七宝文をあ
しらっています。
こちらはおそらく前田利常か堀田加賀守を通
じて注文したものと推測されます。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は御本茶碗のお話しを。
三代将軍徳川家光公が描いた立鶴の茶碗を、
遠州公が切形をもって注文したと伝えられる
「御本立鶴茶碗」とよばれるものが図柄と
器形がほぼ同じもので十碗ほど伝わっています。
又、小堀家に伝わる「夢の字」茶碗は、
遠州公が釜山窯に「切形」を送って注文を出し、
送られてきた素焼きに遠州自ら「夢」の字を書
いて送り返してと、二回の往復を経て生まれた
茶碗です。この茶碗の箱蓋表には遠州公の筆で
「新高麗」と書いてあります。
ご機嫌よろしゅうございます。
これまで遠州公ゆかりの茶陶をご紹介してまいりましたが、
遠州公が指導した茶陶は国内だけではありません。
オランダ・中国・朝鮮と海外の窯にも好みの茶陶を焼かせていました。
現在、茶会で海外の道具を取り入れることはよく行われますが、
江戸前期の茶会記にみると、染付・青磁など用いているのは
遠州公を始め武家茶人や僧侶で、利休以来の千家の茶の湯では
この種の茶陶はほとんど使われていません。
17世紀に海外から請来された茶陶の多くは武家社会や交易に
関わった人々の間で珍重され、茶道界全体に行き渡るのは
もう少し後のことになります。
今月は遠州公が指導した海外の茶陶をご紹介致します。
ご機嫌よろしゅうございます。
先週ご紹介した古曽部焼と同様、遠州七窯に数えられてはいるものの
遠州公以後の窯と考えられている焼き物に「赤膚焼」があります。
現在では可愛らしい奈良絵でおなじみの赤膚焼ですね。
五条山では室町時代から土風炉(奈良風炉)などがつくられました。
天正期、国主大和大納言秀長が尾張国の陶工与九郎を招き開窯を命じ、
正保期の当主本多政勝のとき、仁清が訪れて開窯したと伝えられますが
詳細は分かっていません。
寛政末年、当主であった柳沢保光(堯三)が御用窯とし、保光没後は一時衰微しますが、
天保期に、郡山在住の数奇者である奥田木白が陶工治兵衛の窯で仁清写等、
写物を焼成し再興しました。
遠州公との関連は定かではありませんが、秀長に仕える父と青年期を過ごした
大和郡山の窯であることが、なにか関係があるのではと思うと大変興味深いです。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は古曽部焼の歴史のお話しを。
寛政三年(1791)五十嵐四郎兵衛新平が京焼風な窯を築いて再興しました。
以後代々「古曽部」の印を用いて京焼風の茶陶や高取・唐津・絵高麗・南蛮写
などの雅陶を制作しました。特に二代信平は名手として知られています。
通常焼き物は集落に何軒かの窯元があり、焼き物を作りますが、
古曽部焼は、五十嵐家を唯一の窯元とする、五十嵐家の家業として生産されていました。
古曽部窯は、五十嵐家の敷地内に設置された登り窯の名称で、
最後に製品が焼かれて後20年以上すぎた1950年代に破損、窯を閉ざしたまま現在に至っています。
ご機嫌よろしゅうございます。
幕末の道具商田内梅軒が著した「陶器考」の中に記される「遠州七窯」の一つに
古曽部焼があげられています。
伊勢姫、能因法師隠棲の地としても知られる古曽部。
古曽部焼の開窯は桃山時代末から江戸初期とされ、
遠州七窯の伝承があるものの、確かな史料がありません。
そのため遠州以後の窯と考えられています。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公の指導で作られたとされている茶入「大江」をご紹介します。
膳所焼茶入の代表ともいわれる「大江」
細かい轆轤目のついた紡垂形の体、肩には可愛らしい耳が付き、柿茶釉の上に黒釉一筋がめぐります。
膳所焼に因んで近江国粟田郡瀬田村の大江なる地名を遠州公が銘につけました。
内箱と挽家の蓋表には遠州公筆の「大江」の字が金粉字形されています。
遠州所持の後、その遺品として松平備前守に譲られ、文化年間、伏見屋甚右衛門の取り次ぎで松平不昧公が所有しました。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は膳所焼の特徴について。
この地域の瀬田の名をとった「瀬田焼」という焼き物が茶会等の資料に
残っており、これが膳所焼の前身であったと考えられます。
膳所焼は瀬戸・美濃の陶技を基本とし、ねっとりとした細かい白土に、
鉄錆のような色合いの金気釉を素地にかけ、その上から濃い黒釉や
黄色の飴釉などを景色となるようにかけています。
茶会記などの記録から寛永年間(1624-44)を中心に広く使用され
ていたことが知られています。茶の湯の流行にともなって、
遠州好みの瀟洒な作ぶりのものや、
京都の茶人などの好みの茶器や切型によるものを焼いたり、
禅宗寺院で用いる斎茶用の天目茶碗を量産していたようです。
ご機嫌よろしゅうございます。
今月は膳所焼のお話しを。
膳所焼は遠州公との深いつながりが感じられる場所で焼かれた茶陶です。
琵琶湖の南端に位置する近江国膳所。天智天皇の頃湖畔に田を拓き、湖水の魚を取って朝廷にお供えしたことから「膳所」と称されるようになったといわれています。
1634年、膳所藩主となった石川忠総は、その父、大久保忠隣が小堀遠州の師であった古田織部門下の大名茶人で、自身も忠総も遠州公と親交が深かったことから
その指導を受け茶器に力を注ぎました。
膳所焼は遠州七窯の一つとして評判を上げ、茶入や水指などは諸大名らの贈答品として
重宝されますが、忠総の死後は衰退していきました。
春日社の大甕
ご機嫌よろしゅうございます。
丹波焼の大甕が意外なところで使われている場所があります。
それは能舞台。
兵庫県篠山市の春日社の能楽殿は、丹波篠山藩主青山忠良が文久元年(1861)に
奉納したもので、そのとき丹波の陶工に焼かせたのが七個の大甕です。
「立杭釜屋村 源助作」とへら描きされています。
春日神社の能楽殿は、“箱根より西では最も立派”と言われているそうで、この舞台を使って、兵庫県能楽文化祭が頻繁に行われているのだそうです。
舞台の音響効果を高めるために大甕が床下に置かれていて、中央に置かれた大甕はシテ柱の方向に口を向けています。足で床を踏み、音を発する。
これも太鼓や笛と同様、舞の音楽として使われる効果で、この演出に丹波の大甕が一役買っています。