長と幼
2022-4-1 UP
春爛漫の頃である。元来、爛漫とは花が咲き乱れる様子や、光が溢れるばかりに輝くさまを意味しているから、桜をはじめとする春の花が、光に照らされ咲き乱れているありさまを表現して用いられるのが「春爛漫」である。三月の卒業式、四月の入学式など、多くの行事がこの季節に行われる。人々の心の高揚、気持ちの高ぶりがより増大するのも春爛漫であればこそであろう。その意味では、この三年間の三月、四月はそれまでとは違う、光満ち溢れたものではなく、影が射すこともあった。しかしそういったなかでも、今年は各学校で、縮小する形ではあるが卒業式や謝恩会等が行われるようで、それはそれなりに救いのあることであったかとホッとしている。
私自身、昨年秋に六十五歳になったことで、いつの間にか社会の枠組みでは高齢者の仲間入りをした。まだワクチン接種が滞る去年でも、六十五歳になった途端に接種券が届いたりして、「ああ、そういうことなのか」などと思ったものであった。
誰でもご承知のとおり、日本は少子高齢化の国である。高齢化の問題は、世界共通でもあるが、少子化という点では日本は突出した状態であるといえる。これには、単純に出生率の状況を考えるのではなく、その裏にある日本社会のあらゆる構造の問題を注視しないといけないであろう。そういう諸問題を総合的に判断できるリーダーが欲しい。
日本政府は、高齢者が重症化しやすいことから、ワクチンを始め何事も高齢者最優先である。ある面、それはそれでもいい。私はかつて、ここで長幼の序について書いたことがある。この言葉はときに誤った解釈をされがちだが、『孟子』をあらためて紐解くと、年長者と年少者の間にある秩序を表しており、子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむという、両者が互いに尊重する関係が、人として大切であると教えている。
さて話をもとに戻すと、コロナ禍に身を置き、改めて考えることも多くなった。私そしてそれ以上の年齢の人にとって、この二、三年の時間の消失は大きいものである。でもよくよく考えると、若い世代にとってはそれ以上である。幼少の児童にとって、幼稚園や保育園で先生や友達の顔は半分隠れた状態しか見えない。小・中・高の生徒たちには、登校制限やクラブ活動の停止は情操教育の点からいっても大問題だ。
そして一番気の毒なのは、大学生であると思う。学ぶにしろ遊ぶにしろ人生で一番楽しいのはキャンパスライフを満喫できる大学生のときであると私は考えているし、実際にそうであった。卒業したら社会の荒波に否が応でも揉まれるにちがいない。だから最後の学生生活が重要なのである。この豊かな経験なくして誰が卒業しました、ハイ働いて、といえるのであろうか。政府はじめ大人には、熟考の上、若い世代の人たちに対してワクチン以外のものを早急に供給する責任がある。