芝居見物のなかで

2024-5-1 UP

 去る3月10日に東京美術倶楽部において催された第378回遠州忌茶筵は、全国から参会された遠州流一門が集い、賑やかな一日となった。濃茶席では谷村幽渓庵氏が、能登半島地震への配慮を感じる取合せをされ、青年部全国連合会は、恒例の立礼席ではなく、初めて広間での薄茶の掛釜を行った。各地域・支部からの参加であり、全体を通しての稽古は叶わなかったがため、茶会開始直後は、ややぎこちなさもあったが、やがて解消され良きチームワークを発揮しておもてなしをされ、一日の中での成長が感じられ嬉しかった。さて私の宗家席は、二月の母の逝去を踏まえて、当初の取合せを大幅に改めた。床には遠州蔵帳の狩野元信筆「浪岸」と「枯木」の双幅を掛けた。これは掛物を何に替えようかと考えた時に、直感的にこの双幅にしようと閃〔ひらめ〕いたのであったが、奇しくも東日本大震災の翌年である平成23年(2012)の点初めの際、鎮魂の意を込めて用いた掛物であった。
 さて母の四十九日法要も無事に終え、一定の落ち着きを取り戻した感はあるが、やはりときにふと母のことを思い出す。
 この四月に長男宗以正大が、大徳寺僧堂から実家に戻ることが決定した頃、私自身が桂徳禅院から帰ってきた時はどうであったかと記憶をたどると確かその時の月刊『遠州』に何か記事があったことを思い出した。そこで昭和55年の雑誌を探してみると、私のインタビューが載っていた。内容は未熟であまりにも若い私の言葉で、ここに紹介することはできないが、その中に母のことにふれている部分があった。それはやはり、歌舞伎のことである。
 私は学生の頃から母と出かけることが多かった。その多くは芝居見物である。あえて芝居と書いたのは、歌舞伎に限らないからである。松竹新喜劇の藤山寛美とか、映画スターの大川橋蔵の年に一度の舞台の冠公演も欠かさなかった。東宝系の喜劇なども連れていってもらった。おそらく家族の誰よりも一番多く見に行っていると思う。場所は歌舞伎座、新橋演舞場、明治座、国立劇場、そしてときには新宿コマ劇場にも出かけた。芝居の内容で父が好まないものがあったり、場所的に弟の年齢にふさわしくないこともあったのか、そういったもろもろの理由で私と一緒だったと推測できる。しかし本当の理由は、芝居に対しての母の感性と私が近かったからだと思う。というよりも、母からそれ自体を多分教わったのであろう。
 歌舞伎を観にいって、世話物や時代物についてあれこれ母の感想を聞くこともあったが、一番よく私に話すのは、舞踊の時の役者の手先の動かし方や、足捌き、そして後ろ姿のこと。これらに関しては、母自身が藤間流を学んでいたせいか、かなり詳しく言っていた。そんな話を聞くたびに、この人は相当厳しく稽古をしたのに違いないと子供心に思ったものだった。そしてこれらのことは今の私に大いに影響を与えていると考えられる。機会を改めて書きたいと思う。