秋におもう
2019-10-1 UP
ようやく秋のおとずれを感じる季節と相成った。人それぞれ秋を意識する瞬間は、さまざまであろう。軒先の風鈴が鳴ったときに秋風を感じる人がいたり、鈴虫や蟋蟀〔こおろぎ〕が夕刻、虫の音を聞かせる時分に、いよいよと思う人も多いだろう。宗家の成趣庵露地も、多くの虫が生息しており、夕刻になって窓を開けて新鮮な空気を入れながらの稽古中には鳴き声が賑やかである。
夜の空も澄みきって、月が美しく見えるようになると、月光に照らされた景色も秋の風情たっぷりである。一方、光の当たらない影の部分も同じ、秋の味わいである。明と暗、光と影、相反する二つのものから、結果的に同じ感覚を味わうというのは、日本人独特の感性かもしれない。
このような情緒的なものからだけでなく、私はもっと具体的に「秋になったなぁ」と思えることがある。それは、茶花を入れるときのことである。茶の湯の花というのは、もとより、茶室という空間のなかでは私たち人間を除けば、唯一生命を持っているものである。したがって、四季折々の気候の変化、訪れ、うつろいを表現するための有効な手段の一つである。私が言いたいのは、そういった一般的な意味ではない。私が秋を感じることができるのは刈萱〔かるかや〕の手触りであったり、竜胆〔りんどう〕の花の数などからである。刈萱は尾花と並んで風炉の季節には欠かせないものであるが、初風炉の頃から、決して主役とはならない植物であり、それは尾花も同じである。その刈萱は、秋になると穂が伸び、そして茎の部分が赤みを帯びながら、硬くなってくる。盛夏の頃は、その硬さはなく、非常に柔軟な感触で、風のゆらぎを感じさせるものとして重宝するものなのだが、この頃には全く別の性格となってくるのである。そしてその様変わりした時に、亭主の心持ち次第によっては、床を飾る花の主役に抜擢されることも、稀にある。おそらく日本人の名残りを惜しむという感情に似合うのである。その意味では茶の湯の名残には、常日頃は主役にならない繕いのある茶碗を用いたり、消息の掛物を寄付ではなく本席に掛けたりもする。そう考えると、秋という季節は、私達の心を表現する最もふさわしい時季であるといえると思う。
話は変わるが、今年も8月中旬にシンガポールに出張した。国立大学に茶道部を開設して30周年の記念講演や茶会が中心であった。大学から遠州流茶道との交流30周年に対し、感謝のプレートをいただき、日本国特命全権大使 山崎純閣下より祝辞をいただいた。またこれらに先立ち、日本では外務省において、7月20日に河野太郎外務大臣から長年の文化交流に対して表彰を受けた。なにごとも地道に継続することの大切さをあらためて感じた次第である。