神様降臨
2022-3-1 UP
春の訪れはもう眼前である。世情はどのようであろうか。新型コロナウイルス感染症も、オミクロン株という新たな展開を迎えている。一口にいうと本当に厄介な問題である。実は二月号の原稿を校了する段階では、本年の遠州茶道宗家 点初めが実際に催されるかは判らない状況であった。もとより昨年は断腸の思いで中止しているわけであるから、今年こそはの気持ちは例年にも増して強いものがあった。とはいうものの、それは世の中の動勢次第でもあり、そこには自分の思いだけではなく、大袈裟にいえば茶道界全般のことや、遠州流茶道門人のこの一年のあり方なども含めて、冷静沈着に判断する重要性があった。結果として、毎年より一日早く一月九日に初日を迎え、十四日までの六日間、無事に行なうことができた。そういう意味では、良いスタートが切れたと思っている。開催にあたり、実は嬉しいことがあった。
本当は個人的には内緒にすべき事柄であると思っているのだが、あまりにも嬉しかったので後々の記録にとここに書くことにする。
それは一月七日早朝の出来事。この日、京都の裏千家においては初釜式の初日を迎える。その直前に、坐忘斎宗匠から私に、これから挙行しますの一報があった。これには感激した。ご承知の方もいらっしゃると思うが、宗匠と私は同い年である。昨年の中止云々等についても、あれこれ意見交換をしていた。だから素直に嬉しかったし、お互いの無事開催を祈念したのであった。
さて私の方の点初めは、やはり通常の方法とはいかない。感染症対策として一昨年、昨年を通して考えていたものに加え、どんどん新しい工夫を宗家全体でディスカッションを積み重ねてきていた。ほぼスタイルが固まって、前日に全ての飾り付けを終えて当日となる九日の早朝五時、まだベッドの中で寝ている私の頭の中に、突然、茶道の神様が降臨した。それは、濃茶席の茶碗の下げ方である。遠州流では元来、お客さまに呈するお茶は濃茶、薄茶に区別なく、必ずお運びの人が袱紗にのせて下げている。今回に限っては、薄茶のときにお客さまにお盆の上にのせていただくことにしていた。一方濃茶は、やはり正式という意味合いから、差し上げるときも下げるときも、お運びの人でとしていた。しかし今回はできる限り、人の手の触れる機会が少ない方が良いのに決まっている。そこで私は夢覚めぬうちに、すぐにお茶の出し方を変えることにした。今度は新たに脇引を一定数用意しなければならない。準備している人たちに悪いなぁと思いながら、第一席から新方式に切り替えた。結果的には非常にうまくいったと思っている。
こうやって固定した概念ではなく、その時その場で柔軟に取り組むのが茶の湯である。
次は遠州忌茶筵を迎える。さらなる何かが加わるか、その時に対峙する気持ちである。