決断
2021-3-1 UP
昨年から今年にかけて、いささか大げさにいえば、私はいままで生きてきたなかで、最も多くの決断をしたのではないかと思っている。
そもそも決断とは、大辞林を引いてみると
一、きっぱりと心を決めること
二、是非善悪を見定めて裁くこと
とある。この一年、私が数多くの決断をしたのは、いわずもがな、いまのコロナ禍が、その要因の大部分を占めている。最初の決断は、昨年三月の遠州忌茶筵の中止であり、それから数多くの茶会や講演会などの行事の延期や中止があり、最も新しい決断は令和三年の点初めの中止であった。これらのなかで、最初と最後の決断は、私にとっては最大の痛手と苦悩を伴うものであった。
常より好むと好まざるとにかかわらず、様々な事柄を判断しなければいけない立場にあるので(本音をいえば、それは望んでいたわけではないが)、私は比較的、人の意見を聞き参考にしている。また、茶の湯の世界という限定的な場所の視点だけではなく外から、つまり世の中の状況も結構注視している。どちらかというと相当な慎重派であると言ってもよい。したがって、大きな決断を迫られるときには、かなり深く熟慮に熟慮を重ねている。心の中で自問自答を繰り返し、右に行ったと思えば左に戻り、上に登れば下に降り、真っ直ぐかと思えば曲がりくねる、そんな状態に陥るのが常である。ただ、その苦悶の時間が、必ずしも長い日々を要するとは限らない。ああでもない、こうでもないと前述の通り悩みに悩み、苦しみに苦しむのであるが、決まるときは一瞬で決まる。決断が重いものであるから長時間、軽いものは短時間ということではない。むしろ重大な決断は、あっという間で、他愛ないものが一週間も一ヶ月も迷うことがある。そうして最後に決めるときは一人で、一気に決めていく。いままでそうしてきている。一人でというのは、ちょっと格好よくいえば、ほかの人の責任にしないということであろうか。依頼心をできるだけ持たないとの思いは昔からである。
古への伝えに、「キレイキッパは遠州」というものがあるが、遠州公の綺麗さびの特長のなかに「きっぱりしている」「潔い」があげられる。そういう意味では、私の体の中にもその遺伝子があると信じている。
決断をしたときは、その結果によって得るものと、反対に失うものが出てくる。私は決めたあとに、次に何を行うかを考えることをいつも同時にしている。この一年は難しい判断による辛い決断が続いたが、一方ではZoomやオンライン茶会、ライブ配信など、すぐに新しい事を考えることを行っている。
ときに心が折れそうになる時もがあるが、そういうときこそ、次に目を向けて行きたいものである。