戦後七十五周年
2020-10-1 UP
今年もあと三カ月余りとなった。年頭は、令和改元となった最初の正月として、希望に胸踊る気持ちであったが、まもなく新型コロナウイルス感染症が世界中に蔓延し、現在でもいまだ明確な打開策が見いだせていないのは、すべての人々にとって大いなる苦しみとなっている。本年の歌会始の御題は「望」であった。それにともなう私の歌は
令〔よ〕き年となる事望む人々の
心和ます茶の湯あるべし
であった。この和歌の前半部分の令き年については、正直なところ本年中にそうなるかは難しくなってきた気持ちがしているが、後半の部分は、こういうときだからこそ、茶の湯の力をもって多くの人々の心を平和に、平穏にしていくべきであるという意味合いが、より重くなってきたと考えている。
さて今年は、戦後七十五周年という節目の年であった。コロナ禍においてその関連の予定行事が続々と中止されたり、規模縮小になったりした。私自身、終戦後に生まれた人間であるので、まったく戦争というものを知らない世代である。むしろ、戦後十年が経過し、日本が高度成長に邁進していく時代の人間であり、ごく幼少期は、三種の神器といわれた「冷蔵庫」「洗濯機」「白黒テレビ」が家の中で重要な地位を占めることを記憶している世代である。十代になると東京オリンピックを皮切りに本当に豊かな世の中となったのを子供心に感じることもできた。しかし、その一方、学校で学ぶなかで、日本の近代史、とくに日清・日露戦争以降の歴史というものには、ほとんど触れる機会はなかった。とくに昭和史というものを学校で教わることはなかった。
私は、茶道宗家の人間として、日本文化を尊び、またそのすばらしさを伝える命をもっていると自任している。これはまた、経済を担う立場の人々、そして政治を司る者にとっても、それぞれの分野において、その責務を全うするのは当然のことであると思う。それが日本という国を支えていくということになる。
しかしながら、一方では昭和史の正確な知識という意味では現在の日本人は自身の肉体のなかで、どれほどの部分を占めているのか。この点について、最近私は非常に気になり始めている。この夏は、ほとんど自宅で過ごす日々となり、私はできるだけ太平洋戦争に関するテレビ、映画、ドキュメンタリーを見た。とにかくなんでも、知りえるものは知りたいという意識でそれらを見た。そのことについて書くスペースはここにはないが、いま強く思うのは、日本は、世界中のどの国よりも、平和というものに対して真摯に向き合わなくてはいけない国であるということである。自身の根源的なものをしっかりと見つめなおすことがなによりも一番である。それはコロナに打ち勝つにも通じるのではないか。安倍政権が終わると同時に、コロナを忘れ権力闘争に明け暮れる。まったく情けないものを見せられ本当に嘆かわしい。