我慢か寛容か

2024-8-1 UP

 暑さが厳しい毎日である。テレビ、ネットのほかあらゆるメディアでの猛暑猛暑の連呼は、いささか辟易とするものである。加えてサーモグラフィの真っ赤な映像を見ると、体感温度がさらに上昇するように思えてならない。とはいえ、これが現実であるからこそ受け入れなければならない。特に熱中症には十分に注意をしなければならない。今、宗家道場においては稽古の合間に、水分補給することは自由に、各人にお任せしている。特に真台子などの特別稽古においては、各地から参集された門人の方々が緊張のあまり水も喉を通らないような状態を見かけることがある。そういう時には「水でも……」と、リラックスされるよう声掛けをさせていただいている。昔は稽古中にがぶがぶ水を飲むことなど、どちらかといえば禁じられていたと思う。私自身、若い時代は汗を額にかかないために、あらゆる努力や工夫をしていた。水分を減らす、我慢するといったことも、当然のことと考えていた。そう思えば、今の時代はずいぶんと変化したと思う。

 これを“楽をしている”ととらえるか否かは、現代は指導者の方に問われていると思う。同じように、スポーツの世界でも、私の小さい頃は練習中に水を飲むことはなかった。今では考えられないことであるが、昔はそれが当たり前で、水を飲んでいる姿を先輩にでも見られたら、大目玉を喰らうというのが常識であった。そういうなか、私には秘密の工夫があった、これは今ここでは未だ明かすことはできないが……(笑)

 現在、直門道場では、正座をした時に両足の間にはさんで体重負荷を軽減する小さい座布団を用意するようになった。これに対しても様々な意見があるのは承知している。

 我慢をすることや忍耐によって得られるものが多いのは、時代が変わっても一つの真実であると思う。しかしそれは一方から見た真実ではあるが、他方あるいは多方から見ると、また違った景色であるのも事実である。道を求め窮〔きわ〕めていくのには、いろいろなアプローチがあってよい。私はどちらかいうと、この立場にある。従って、正座を強いることによって茶道から遠ざかったり、点前は立礼だけと考えられるよりは、いつか正座をしてお茶を点ててみたいと思ってもらいたいと考えている。つまり正座に親しんでもらいたいということである。そして今までと違う視点や形でお点前に取り組むと、お道具一つひとつも異なった印象をもつことができる。

 色の見え方でも、光の当たり方で同じものが全く別のものになることが少なくない。織物でも経糸と緯糸の具合で、横から見た時と真上から見た時で色も模様もだいぶ違って見える。

 現代は多様性の時代といわれている。しかしながら、それは今始まったことではなく、おそらく人類が誕生した時からそうなのである。

 結局のところ、それを気づくか認めるか、取り入れるかということだと思う。茶道に親しむということは、自由で寛容であるということをもう一度認識したいものである。