成長
2024-2-1 UP
本年甲辰歳の点初めの床の間に、大徳寺百五十三世澤庵宗彭禅師の一行書
「直透萬重関 青霄裡不住」(直に万重の関を透〔とお〕り 青霄〔せいしょう〕の内にとどまらず)を掛けた。私の好きな禅語の一つであり、父もまたこの一行を好み、使うときは特別な思いをもっていたようである。人生にはもろもろの難関があるが、それらを透過したとき、その折々に歓びの心、達成感をもつものである。それを青霄と表現しているわけであるが、決してそこに満足して安住してはいけないということを、この禅語は説いているのである。なかなか厳しい文言ではあるが、考えれば考えるほど深い意味をもっていると気がつかされる。
人間が成長していく為に必要なことはたくさんある。それらに言葉を当てはめていくと実に多くの表現がある。当然のことながら、一番に思い浮かぶのは「努力」であろうか。しかし何のために努力をするのかといえば、自分にとっての「目標」があるからだろう。その目標を見出していくきっかけは「興味」であり、「探求心」である。興味をもつのは、何かを見たとき、聞いたときに感動したという出来事に起因する場合が多い。書に触れたり絵画を見たりした瞬間に、得も言われぬ感銘を受けて、自身がその道に進もうと思う人は少なくない。何も絵画や書だけでもない。自然の景色を見たとき、たとえば富士山の雪景色、紅葉の美しさ、桜吹雪の風情、撫子一輪の可憐な姿、清流の清らかさ等々によって、写真家になりたいと考えることもあると思う。私には茶の湯以外にずいぶんとそういう場面があった。それは「出会い」という言葉になる。出会いは「発見」と言い換えることもできる。発見や出会いを数多く重ねるうちに興味がさらに深まって、自然に探究心が芽生えるものである。探求心からは、また次から次へといろいろなものが派生する。「面白い」と思うこともそこに繋がっている。物事を面白いと感じたら、もう止まるところがない。先述の私のお茶以外の話をすると、ここでは書ききれない。一つだけ挙げれば、やっぱり映画。以前は洋画が九割としていたが、いまは邦洋の区別はなくなった。そして一人の映画作家にもとどまらなくなっている。現在ネットでは、ある分野を検索すると関連のものが連鎖して出てくるが、それらを頼りにする必要がないくらい、人間の頭脳のなかでも、あらゆるものが鎖の如く繋がり広がる。その「姿勢」をもつのが肝要である。その姿勢があれば、人間の方がITよりもっと自由で幅広くあるはずである。そう考えたらもっと私達は自信をもって生きてよい。ただし歩みを止めたり逡巡はしないこと。
茶道のお点法も全く同じ。より高く広く深さを常に求めていく一年にしたいものである。
※年明け早々に大きな地震が日本列島を襲った。被災された方々へ謹みてお見舞い申し上げます。