工夫
2021-6-1 UP
継続について二ヶ月にわたり書いてみたが、あらためて、物事を途切れさせることのないようにするには、不断の努力が必要であることに気づかされる。そのためには先月述べたように、自分自身の独特なルールともいえる「ルーティン」という日課を決めて、特定の行動を習慣化する方法がその一助にはなりえる。人は定例とか慣例など決まり事がある方が、気持ちを楽にすることができやすい。パターンと言ってもいい。しかしその一方で、あまり形式化することによって、そこに窮屈〔きゅうくつ〕さを感じるのもまた人間なのである。だから、一口に継続と言っても、そう安易ではない。
私が、窮屈さを感じずに物事を続けていくために大切にしているものは、工夫である。
「工夫」について大辞林では
一、いろいろと考えて、よい手段を見いだすこと。また考え出した方法・手段。
二、禅宗で、修業に励むこと。また、よく考え研究すること。
とある。
ここで私が取り上げる工夫は、二の禅宗における意味ではなく、もちろん一の方である、ご承知のとおり、茶の湯では創意工夫はもっとも大切な考え方である。ただし日常的にものを継続するときに創意、つまり今まで誰も思いつかなかったことを考え出すことを求めると、前述の形式化にともなう窮屈とは別の意味で、いささか気が重くなる。
そこで工夫ということになる。工夫は、考えをめぐらすことであるから、全く新しくならなければいけないわけでもないし、すでに行われているものを、そのまま遵守〔じゅんしゅ〕する必要もない。新旧に知恵を自分の裁量で利用することもできる。人間の心や頭の中は本来、誰の制約も受けることのない唯一無二のものであるべきものだ。したがって自由自在に考えればよい。A案B案、そしてC案くらいの、いくつかの考えを頭の中で整理整頓すれば、自ずからよいものに収まる。こうしてできた工夫は、それほど難しくもないので、続けることに負担を感じないのではなかろうか。少なくとも、私はそうとらえて何事にも向き合うようにしている。工夫するのに一つだけ大事なのは、学ぶという姿勢だと思っている。学ぶ姿勢は、古きことにも新しきことにも平等に、偏ることなく持っていなければいけない。その結果取り上げるものが、ときには古式ゆかしきものであっても、反対に全て新しいものであってもよい。
今、私たちは、毎日の生活において、行動の制限、マスクの着用を始め、多くの制約を受けている。その中で心を豊かに日常を過ごすには、とらわれることのない自由な考えをもって工夫をこらしていく精神を磨くことであると考えている。茶の湯にかかわる皆様こそ、生活に工夫をこらし、今の時代の水先案内人になって欲しいと願っている。