出会い、別れ
2024-11-1 UP
8月の中旬をむかえようとした頃、衝撃的な訃報に私の心は切り裂かれた。
松岡正剛氏が逝去されたという知らせである。かねてから体調を崩され、入院中であったことは知っていたのであるが、思わずもらした第一声は無念の一言であった。編集工学という言葉を世に知らしめたのも松岡氏であり、よく世俗的には知の巨人のような呼ばれ方をするが、私にとってはそんな簡単な感じではない、特別な人であった。
もともとの縁は平成12年、つまり2000年の冬であった。世界中でミレニアムという表現が使われ、間もなく21世紀を迎えようとするころのこと。私自身は翌2001年には父から13世家元を継承するという時であった。これもまた私にとって特別な人であった資生堂の福原義春さんを通して、「貴方に会わせたい……」みたいにその名前は聞いていた。それ以前にも私の同窓生に、松岡さんの勉強会に出た友人がいて、「この人に小堀君は絶対会わせないといけない……」などと言われたこともあって、なんとはなしに意識していたのも事実である。そして私の家元継承の記念碑的な番組としてNHKの「新日曜美術館」で流祖小堀遠州の特集番組が制作された。そして番組のメインコーディネーターの役が松岡さんであった。番組の最終場面に、松岡さんが遠州を今に伝える人物として、若宮町の宗家道場を訪ねて私と対面し、お茶を一服というシーンの収録が予定されていた。年末の収録日の数日前には雪が降り、撮影時の成趣庵の露地には雪が少々残り、二人の初の出会いを清浄で印象的なものにしてくれていた。実はこれには裏話がある。演出サイドとしては、とにかくこの収録日まで松岡さんと私を会わせないようにしていた。が、私達はなんとしてでも会ってみたいという気持ちが双方にあり、なんとかならないかと思案もしたが、なかなかうまくいかない。テレビ的にはNGなので、絶対に内緒である。
そこで思いついたのは、私にとってもう一人の大切な人、照明デザイナーの藤本晴美さんの力を借りることであった。藤本さんも福原さん経由で知己を得ており、松岡さんとは私よりもずっと濃い関係である。話はトントン拍子で進み、収録数日前に都内某所で初めてお目にかかった。
それからちょうど四半世紀きっちりのお付き合いとなった。本当にいっぱいいっぱいに教えをいただいた。無知の知という考え方があるが、私にとってはそのことの重要さ、意味を教えてくれた人であった。遠州の言葉に「我知らぬ事を人の尋ね候はば、知らぬと答えたる事は、知りたると申し上げるより能く候」があるが、正しく私がこれを実感したのが松岡さんとの25周年であった。
今年4月29日の近江ARSでご一緒したのが最後であった。その時、舞台に駆け上がっていの一番に握手をした。そのぬくもりは今も私の手に残っている。
心よりご冥福をお祈りいたします。