今年の炉開き

2020-11-1 UP

 霜月は、茶の湯の世界では茶壷の口切、お点前は風炉から炉となる、いわゆる炉開きの時季である。宗家では毎年、直門の稽古が行われる研修道場内の向栄亭で、多くの門弟の方々の前で私自ら、炉開きの炭点前を行う。通常は三ヶ所の炉を開けるので、概ね一時間余の所要時間である。その後、参会者一同にご祝儀のお酒が盃に注がれ、盃を上げその後、開炉初めての稽古が始まる。

 私の父、紅心宗慶以前に、どのような形で炉開きを行っていたのかは、私自身は見ていないので判然としないが、少なくとも先代が其心庵宗明とともに住んでいた青山から独立し、自身の居を構えて以降、向栄亭道場ができてからは小規模ではあるが、現在に近い形で行うようになった。実際に私が父の側についた40年前には直門の方々の前で行われていた記憶がある。それでも当時は、ごく少人数で行われており、広く公開するようになったのは私の代になってからである。

 さて本年は、いまこの原稿を書いている段階では確実ではないが、やはりコロナ禍の現況を踏まえたうえで、例年とは異なった対応をとることになる。宗家における炉開きという行事の重大性そのものには、いささかの変わりはないが、そこに同座していただく人の人数は少なくなることになる。この炉開きを一つの例として、今後は多くの茶道の行事が、いままでとはやや形態を変化させていくことになるであろう。

 ここで私が一番大切に考えているのは、形ではなく、精神性の継承である。なにごとも基本の理念、精神があって形が生まれてくるわけで、その意味ではまさにいまの時代、そのことを私たちは問われているのである。従前の形式のみを墨守〔ぼくしゅ〕するだけでなく、新しい形をつくりだすのは簡単ではない。というのも、いまの形は過去何年、何十年、いや場合によっては何百年の時代の変化のなかで形づくられたものだからである。当然、なかには不便さがあるものもある。しかしその不便さを包含しながらも、いまに残っているというのには、当然意味があるはずである。それが、歴史とか伝統にもつながってくる。遠州の綺麗さびは、その古〔いにしえ〕の形に洗練された美を加えたものであるので、単に古いものというだけでなく、そこに輝きもあるといえる。こうして現在まで伝えられた形を、なんらかの理由で新しいスタイルにするには、勇気と覚悟がいるので、そういう意味で通常の方法を新しくというのは簡単ではないというわけである。

 しかしいま、そのなんらかの理由ができたのである。ここを一つの機会ととらえていくのが現代に生きる私たちのなすべきことと考えて、今後も取り組んでいきたいと思う。

 夏に始めた「温茶会」も、この十一月に第二弾、第三弾と配信する予定である。私の新しい発信の形として大切に継続する所存である。