亡父、紅心宗慶居士称名忌
2023-7-1 UP
国宝の東塔落慶法要での献茶奉仕を無事勤め、感慨無量の気持ちのまま、妻と娘とともに薬師寺をあとにして、東京への帰路についた。
翌4月22日、亡父、紅心宗慶宗匠の称名忌(十三回忌)の法要が、小堀家の東京の菩提寺・練馬の廣徳禅寺で執り行われた。法要には宗家一統ならびに親族、そして生前の父に直接指導を受けた門人の方々を中心に、職方等遠州流関係者が多数参列していただいた。もっと大勢の方々をと考えてもいたが、まだまだコロナが完全収束ともいえない状況下であることに配慮した判断であった。
そういう考えのもと、私は本年の正月から点初め、天神茶会、遠州忌茶筵、明歴会、孤篷庵における遠州忌茶会など、宗家行事の私の掛釜の席の道具組において、常に先代と縁のある道具を選び取合せ、この称名忌法要にお招きできない父の生前に知己の深い方々に、各茶会を通して偲んでいただくように取り組んでいた。
生前の紅心宗匠は、晩年「お茶は私」と語ることがあった。その表現の仕方は、相当の覚悟と相応の振舞いを伴っていないとできないものである。もっとも近くでその姿を目にしてきた私にとって、日々の父の生活ぶりは、やはりお茶であったと感じている。
たとえば毎朝、起床し洗面し身嗜みを整える。祖堂で読経。そして朝食。朝食の際には、髪の乱れは一本もない。つまりその時点で、いつ誰に会っても、見られても大丈夫な状態に仕上げている。朝目覚めたそのままの姿でいることはない。現代人でいま、こういう人はどのくらいいるであろうか。朝食のあとは、お茶をいただく。だいたい三服くらいが通常。内弟子さんがいなかった頃、つまり私の若い頃は母か私が交代でお茶を点てていた。ときには父が、私達のために点てることもあった。それは、私が時たま、蔵から季節によって父の喜びそうな茶碗を出してきたときのことである。つまり、普段使いでない、古い茶碗でお茶をいただく際である。朝、私が「ちょっといいお茶碗出しましょうか?」と聞くと「ああ、あれね」とか答える。特別に良いものであれば、私が箱から出すと、それを父が自らゆっくりとぬるま湯で温める。その手つきがまた、いかにも愛おしそうに茶碗を包み込んでいる。あれは本当に茶人の手であった。そういう姿や所作が、私の目と心にしっかりと刻まれている。私に限らず、紅心宗匠となんらかの時をともにされた方は、一人ひとりの思いがきっとあるにちがいない。
私は本年の3月・5月の両遠州忌の茶会記の後部分に、先代と私の以前に書いたエッセイを載せている。ぜひ、もう一度それをお読みいただき、紅心宗匠を偲んでいただければ幸いである