二月六日
2024-4-1 UP
それは覚悟していたとはいうものの、やはり突然の知らせでもあった。
ご承知のとおり、二月六日は流祖遠州公の祥月命日である。例年の通り、朝、東京を出発して京都孤篷庵へ墓参に向かうべく新幹線に乗車していた。小さい時に、父と母に連れられて初めて新幹線に乗ったのもこの日だったと記憶している。学生時代はしばらくかなわなかったが、卒業後は父母とともに列車に乗る、私にとっては貴重な時でもあった。
母は前年の暮れから体調を崩しており、年末年始にかけて、除夜釜から正月三ヶ日の諸行事、そして点初めと大仕事が控えるなか、私自身の心も複雑でもやもやしていた。しかしながら、母は年を越し、あたかも私達が宗家の正月を無事に停滞なく勤めるべく見守っているかのように一日一日と日を重ねていた。最後まで、意識が混濁することもなかったことに、あらためてその強さに感心していた。
さて二月六日、ちょうど名古屋駅に到着する十分前に、前日から京都に入っていた宗翔から電話が入った。そのまま名古屋で下車し、すぐに東京へ帰った。東京行きの列車のなかで、宗翔には孤篷庵で遠州公にお参りをして帰京するよう指示し、直ちに孤篷庵の小堀亮敬住職に電話をし、その旨を伝え了解いただいた。その後、大徳寺僧堂で修行中の宗以に伝えるべく、龍光院の小堀月浦老師に電話し、宗以には僧堂において母の冥福を祈ってもらうことになった。慌ただしく帰京し通夜・葬儀などを決めた一日であった。
母との思い出は、次回にまたふれたいと思うが、二月九日の出棺の際に喪主としてご挨拶した一文をここに掲載させていただく。
「本日は御用多き所、母小堀公子の葬儀に御会葬賜り、また最後までお見送りいただき誠に有難うございます。小堀家、浅井家親族一同厚く御礼申し上げます。
母は一言で表すと意志の強い人でした。その一番の例えが、昨年末から今年に入り、体調面がかなり危ぶまれている中で、宗家における新年の諸行事を滞りなくしっかりと勤めるべく私達を静かに見守ってくれたことです。その上での大往生、旅立ちでした。本当に気丈な人でした。
一方、皆様お一人お一人に対しては様々な表情を見せ、沢山の印象を残していると思います。本人自身が藤間流の名取ということもあり、日本舞踊を愛し、無類の歌舞伎好きでもありました。そして茶の湯においては、偉大な紅心宗慶の妻として宗家を支え、私達子供や孫に対しては溢れる愛情を注いでくれました。
生前中、一方ならぬ御厚誼に預かりましたことを深く感謝申し上げます。今後は小堀家、浅井家親族力を合わせて遠州流茶道を守っていく所存でございますので、変わらぬ御厚情をお願い申し上げまして、ご挨拶とさせていただきます。有難うございました」 以上