ふりかえる

2023-11-1 UP

 今年もあと二ヶ月を残すのみとなり、昨年の今頃はなにをしていたのか、不図そんなこ
とを考えて、令和四年の『遠州』11月号を読み返してみた。「年齢」という題で、父 紅
心宗慶と私の共通点や、個性の違いなどを書き述べていて、結構面白かった。おそらく本
年の十三回忌を控えての思いがあったのであろう。私は常に先を見る傾向が強く、ことに
最近は忙しさにかまけて前のめりになっていたことに今頃になって気づいた。ときには少
し自分の足跡をチェックし、ふりかえることも必要とあらためて感じた次第である。
 さて霜月になり、私が真先に取り組むのは、炉開きの仕度である。ご承知の通り、十一
月は茶の湯にとって格調が高い時候である。炉開きと口切りの両行事があるからともいえ
る。口切りについては、宗家ではお客様の眼前において茶壷の封印を解くということは行
わないのが、古くからの慣わしである。これは武家の茶の湯としての心構えであると言い
伝えられている。
 一方、炉開きは、かなり大々的に行っている。直門道場の向栄亭は、通常稽古に使用す
る炉は四ヶ所ある。十一月の第一週の稽古日に、直門一同が相揃うなか、私が一ヶ所ずつ
炭点前を行い、その後、参加者全員に御酒を振る舞い、そしてお茶をいただく。非常に厳
粛であるが、華やかで清々しい気分になる瞬間である。
 炭点前は、私は何度となく行っているが、毎回いつも新鮮な心持になる自分がそこには
いる。点前の手続きは、もちろん同じである。しかし炉中の景色は常に同じではない。む
しろ毎回違っているといってよい。下火の状態、これは菊炭という表現があるほどとても
美しいものであるが、その日その日の天候や気温、茶室への光の入り具合、さまざまな条
件で異なって私の目に映る。今日は火の起こりがよさそうであるとか、ちょっとゆっくり
かな? とかを、釜を上げて炉中を見た瞬間に判断することが多い。これは経験則から身に
ついた感覚ともいえるのだが、同様の感覚は下火を動かし、次に灰を撒くときにもある。
灰は一定の湿りを保ってはいるが、やはり全く同じではない。目で見て、少々乾き気味で
あるとか、今日は湿りが強いかも、など判断する。さらに、灰匙で灰を掬ったときのわず
かな重みの違いでも灰の良し悪しがわかるし、実際に灰を撒いたときの灰匙からの灰の離
れ具合などは本当に微妙なものである。
 この刹那に思うのは、準備してくれている水屋の人の苦労である。私の点前のために最
高の状態を裏方で支える水屋番と、表舞台で点前を披露する私との間の無言のコミュニケ
ーション、まさしく阿吽の呼吸が形成されていないとできない。その後に展開される各種
役炭を置く際の一つひとつの動きや、道具拝見に至る全てについて、同じことがいえる。
つまり点前を万全に行うということは、亭主は己れの修練はもとより、お客様だけ見るの
ではなく、見えない場所に控える水屋番への感謝の心、つまり、ふりかえる意味の大切さ
を教えてくれるともいえるのである。